ゴールを掲げる

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「君にとって、最終的に辿り着きたいゴールはなんだろう?」

最近知り合った人生の大先輩に仕事の悩みを聞いてもらったとき、僕の話を聞き終えた彼からそう問われた。

彼は続けて「君が今話してくれたことはたぶん間違ってないし、とても面白いと思う」と僕の考えに同意を示した後、「でもね」と少し間を開けてからこう言った。

「君が辿り着きたいゴールが明確になれば、それが周りの人から見たら“目印”になって、たぶん一気にコトが動き出すと思うよ」

辿り着きたいゴール?
目印になる?

僕は彼の問いにうまく答えられず、曖昧に「うーん、ゴール、あった方が良いんですかねぇ」と返事をしていた。

僕の返事に彼は小さく笑い、「ゴール、言葉にできるといいね」と言って席を立った。

事務所に戻り、打ち合わせをしている最中も彼の言葉が頭から離れなかった。

正直に言えば、目の前で「君のゴールはどこだ?」と突きつけられた時、僕の鼓動は早くなり胸が騒ぎ、少し慌てさえした。

それはおそらく「ゴール」という言葉に対するアレルギー反応に近い感情だ。

では一体何が僕の琴線に触れたのか。その正体が分からずにモヤモヤとしていた。

僕にとってのゴール、誰かにとっての目印。

30代も半ばになり、無邪気に「将来、こういう人になりたい」などとは言えなくなった。そして言わないまま過ごしていたら辿り着きたいゴールが眼前から消えていた。

その代わりに視界は前より横や後ろに向くようになった。気付けば周りの人にとってのゴールを後押しすることを自分の喜びとして感じるようになっていた。

それが心地良いし、大袈裟に言えば幸せだとも思っている。

彼の言葉に僕が慌てたのは、今のこの気持ちが「嘘だ」ということではない。

モヤモヤの正体に辿り着くために記憶を戻すことする。僕がまだ青臭くゴールを目印にして走っていた頃に。

過去を振り返り導き出された答えは、ゴールに対する怯えであり、そして、光だった。

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僕は高校生の頃は陸上部で、短距離を専門種目としていた。

高校2年の夏まではいたって平凡な選手だった。

それでも秋口くらいから徐々に成績が伸びてきて、東京都のトップ選手の仲間入りができる一歩手前まできていた。

あのトップ選手の中に入りたい。
そうハッキリと思うようになった。

そして高校2年の冬、ふたつの目標を掲げた。

ひとつは100Mで10秒台を出すこと。
もうひとつは関東大会に出場すること。

陸上をやっていた人ならわかると思うが、多くの陸上選手にとって100M走で10秒台を出すというのはひとつのステータスであり、憧れの境地でもある。

関東大会というのは東京都大会で6位までに入賞した人間だけが出場できる大会であり、これも多くの陸上競技者にとってひとつの目標の場所でもある(その次には全国大会、つまりインターハイがある)。

僕はその目標を公言することにした。チームメンバー、監督に宣言した。それから「100M10秒台!関東大会出場!」とテーピングにマジックで書いて自宅の机の上に貼り付けもした。

そんな風に僕が目標を掲げたことで、周りのチームメンバーも次々と目標を口にし始めた。

目標を公言したチームメンバーは、今まで以上に練習に打ち込むようになった。不思議なのだけれど、練習に打ち込むほど彼らは活き活きと楽しそうに見えた。何より声を掛け合う機会が増えた。そしてお互いの練習を手伝ったり、アドバイスをし合うようにもなっていた。

同じチームとは言え、大会に出れるのは選抜された数名で、隣で走るメンバーは仲間でありながらライバルでもある。それにも関わらず、互いを高め合う気運が外から見てもわかった。チーム全体が確実に「強く」なっていくのを肌で感じていた。

僕にとってはそれが楽しかった。

その後の詳しい流れは省くが、結果として僕は高校3年生の初夏に、掲げた目標をふたつとも達成することができた。

もちろん嬉しかった。ただ飛び跳ねるほど喜んだかと言ったら「ノー」で、むしろ安堵の気持ちの方が強く、さらに言えば焦りに似たような感覚でもあった。

まだ速くなれるかもしれない、もっと上の世界を見てみたいと思っていた。

もっと上の世界へ。そう思った僕はただただ練習を追い込んだ。到達したい目の前の「ゴール」は掲げず、ただ「上を」の一心で遮二無二練習を繰り返し、そして、怪我をした。

そこで僕の熱は一気に冷めてしまった。そしてその数日後には引退することを決心していた。

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以前勤めていた出版社では、プロデューサーとしてひとつWebメディアを立ち上げた。

ゼロからの立ち上げだ。当然ながら僕も周りもまずはどういう状態になったら「成功」と呼べるかを決めることにした。

さまざまな調査を経てたどり着いたゴールは「月間100万人が訪れるメディアに育てる」というものだった。そこまでいけば一旦成功と呼んでもいいのではないか、ということになったのだ。

そしてメンバー全員にその目標を伝え、そのゴールに向けてメンバー自身の判断で動くように指示をした。僕に対しては事後報告だけでいい、そう伝えた。

それぞれの役割があるとは言え、仕事は横の連携が多い。彼らはメンバー間で自主的に情報交換を行う会を開き、スピード感を持って企画に落としては実行に移していった。

僕がやったことといえば、外に出かけ、新しい知見や新しいつながりをメンバーに提供した程度で、彼らのアイデアや企画の後押しをしたに過ぎない。

メディア公開から足掛け3年、ようやく達成した時の気持ちは、100Mで10秒台を出したの時と同じように「安堵」だった。

ひとまずクリアした目標だけれど、思いの外「手応え」を感じられなかった。恥ずかしいのだけれどそこから欲が出てきてしまった。メンバーに向き合うことより外に出ることを優先し、「将来はこんなことをしたい」「これからのメディアはこうすべきだ」などと口角泡を飛ばして語り始めてしまった。

結果としてメンバーたちを混乱させてしまった。目指すべき指針がわからなくなってしまったのだ。さらには、僕の話に首を傾げる人に「話がわからない」と詰り傷つけてしまった。

そして、だんだんと人が離れていった。

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ここまで振り返ってみてわかるのは、ゴールはどこまで行っても「通過点」だということだ。掲げたゴールに到達したとしても、新しいゴールが霞むように現れては僕らを惑わしてくる。

ゴールは、達成した瞬間に「次」を見失わせ、自身を追い込み、まわりを巻き込み、自分も仲間も損なうという負のスパイラルを生む魔物だ。

人生の先輩に「君にとってのゴールとは?」と問われた時のモヤモヤの正体は、そんな魔物に対する「怯え」だったのだ。

それでも。

ゴールに到達するもっと手前、時に遠のき、時に近づくゴールにひるみながらも走り続けていた「道のり」に目を凝らせば、そこには春の陽射しのようにあたたかい光が見える。

その光の中には、目標を分かち合い、共に走っている人たちと切磋琢磨しながら笑っている僕の姿が見える。

「ああ」とやっと気付いた。
ゴールは魔物ではなかった。
ゴールに翻弄された僕自身が魔物だった。

なんでこんな単純なことに気付けなかったのだろう。

今ならハッキリと言える。

僕には「ゴール」が必要だ。
もっと正確に言えば、僕が掲げたゴールを目印に「人が集まる」あたたかさが必要だ。

これから時間をかけて「ゴール」を探すことにしよう。そして探し当てることができたなら、近い人に、遠い人に話しにいこう。

その先には春のようなあたたかい光が待っているから。

文・写真/Takapi

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