区切ること

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2018年1月1日。
朝6時半にかけたスマートフォンのアラームで僕は目を覚ます。
昨晩の深酒を呪いながら(毎年のことだ)カナダグースのダウンを羽織って、カメラを持って家を出る。カナダグースの下は寝間着のままだ。

家のそばを走る環状道路にかかる歩道橋が目指す先。
白い息を吐きながら歩道橋に登れば、すでに先着した20人ほどが同じ方角に目を向けている。
家族連れだったり、高齢の夫婦だったり、ひとりきりだったり。

初日の出を待っているのだ。

6時50分を過ぎた頃、天気予報通りに東の空から太陽が昇り始める。
空の色が群青からピンクに変わったのも束の間、徐々に東の地平線は(正確には地平線ではないけれど)オレンジを強め、太陽の輪郭があらわになった。

あちこちで短い溜息のような歓声が起き始める。
カメラのシャッターを淡々と切る人もいれば、なにやら祈るように口をもごもごと動かしながら太陽に向かって手を合わせる人もいる。

集まった人たちの胸中はそれぞれ違うのだろうけど、共通する思いがあるとすればそれは、「良い年になりますように」という願い。

365日、違う道を、違う速度で歩いてきた人たちが、こうしてほんの数分だけひとつの場所に集まり、同じ思いを共有している。
そのことが不思議と「守られている」気持ちにさせてくれる。胸よりも下、お腹のあたたかさでわかる。二日酔いのせいかもしれないけれど。

とりあえず言えるのは、僕はこの少しの時間が好きで毎年同じ歩道橋まで足を運んでいるということだ。

太陽が昇り始めて5分もすればいつも通りの隣人たちの顔に戻る。
顔見知りを見付ければ「あけましておめでとうございます」とあいさつを交わし、一人の人は静かに家に戻る。

僕は僕で、5分ほどぼんやりとオレンジを眺めていたら、思い出したように寒さが二の腕あたりから刺してきたので、あわててその場をあとにした。

家に帰り、寝間着に戻り、床暖房をつけ、ジンとする頭をもてあましながら、ぼんやりと今年をどんな年にしようかと考え始める。

一年の計は元旦にあり。

不思議なものだ。
つい10日前までは「今年もいろいろあったねぇ」などと気の合う仲間と忘年会で飲み交わしながら「よいお年を」と楽観的に手を振ったばかりなのに、1月1日になった途端、昨年と真摯に向き合い、所信表明とばかりに1年の目標を考え始めているのだ。

(どうでもいいことだけれど、「よいお年を」っていい響きですよね。色々あった1年を「ま、いっか」と帳消しにするほどの滋養に満ちた言葉だと思う)

地続きの日常の中で「区切り」をつけること。
それだけのことだけど、怠惰な生活を送りがちな僕にとっては、弾みというか張りというか、気持ちが前向きになることは確かだ。
「いっちょやってみるか」という気分になる(ほんの少しだけど)。

リスタート、そんな感じだ。

さっき初日の出を見にきた人たちも、今までとこれからの「区切りの儀式」のために、あの場所に足を運んでいるのだろうか。

そんなことを考えていたら、なんだかコーヒーを飲みたくなった。
まだ夢の中にいる妻を起こさないようにそっと「フグレン」のコーヒー豆を挽き始める。

朝コーヒーを飲む習慣は10年近くになる。
僕は平日はサラリーマンをしていて、始業の1時間前に会社近くのカフェに寄り、本を読んだりスマホでニュースを見たりしてから出社するようにしている。
これがないとどうも落ち着かず、うまく1日をスタートできない。
朝のコーヒー1杯が、いわばウォーミングアップの代わりになっているわけだ。

湯が沸き、「CAFE SHOZO」の白いマグカップにドリッパーをセットし、時間をかけて湯を注ぐ。
注ぎ切ればドリッパーを外し、カップで両手を温める。一口飲み、ようやくほっとひとつ息をつく。

さっき頭に浮かんだ「区切る」ことについて思考を戻す。

僕らは「区切り」に囲まれて生きている。
卒業式、入社式、結婚など人生のイベントから、夏至や春分日などの季節の報せや暦まで、区切りにまみれた暮らしをしている。

区切りが訪れる度に僕らは、日々の生活を振り返り、反省と達成感を天秤にかけながら、時に慰め、時に鼓舞しては小さく自分をアップデートしている。
薄い湯葉を積み重ねるように、危うく弱々しくもあるのだけれど。

区切ることは過去を省みること。
区切ることは兆しに気付くこと。
区切ることは自身を刷新すること。

そんな作用があるらしい。

おそらく大昔の人たちは、この作用によって人類がより良い方向にいくであろうことを予期し、「区切り」というイベントを発明したんだろう(違うか)。

そこまで考えて、「あ、この朝のコーヒーもひとつの“区切り”だ」ということに気付いた。
僕らは意図せずとも区切ることを「習慣」としてうまく生活に取り入れて工夫しているようだ。

たとえば毎朝走ることで区切る人、サウナに入ることで区切る人、本を読むことで区切る人…
普段の暮らしにひとつ区切るというアクションを取り入れることで、僕らは日々小さなアップデートをしていたのだ。

アパレルショップ店主の僕の友人は
「朝から晩までほとんどショップにいるでしょ?そうするとショップにいる1日の間に時計の短針が1周以上することになるんだよね。それがなんというか気持ち悪くて」と24時間で1周する腕時計に変えた。
腕時計を変えたことで、1日をしっかり1日として終わる気がすると嬉しそうに話していた。

これもひとつの区切り方なんだろうなぁ。

普段の生活の中で、今までただ自分を気持ちよくさせるためにやってきた工夫や習慣が、自身をひとつアップデートさせているんだと思えば気持ちよくないだろうか。

気持ちよさはリズムを生み、リズムは伝わり、人を引き寄せる。
それはあたたかい循環。

大きな目標は必要かもしれない。
それはそれとして、日常の小さな工夫に目を向けることも、楽しく暮らすためには必要だと思うのだ。
どんなに足掻いても、将来は今までとこれからの日々の積み重ねの上にしか成り立たないのだから。

僕はここで毎月コラムを書かせてもらうことになった。
コラムを書くことで日々の暮らしにいい循環が生まれることを期待しています。
ではまた来月お会いしましょう。

文・写真:Takapi

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