嬉しい寂しい

OLYMPUS DIGITAL CAMERA          Processed with VSCO with u3 preset子どもの頃から集団行動に馴染めなかった。はっきり言って苦手だった。

少年野球を小学1年生から6年間続けていたのだけど、大会でチームが敗戦したときに、メンバーが悔し泣きをしているそばで、猛打賞だった僕はどうしても「泣きの輪」に入れず(一応悔しそうな顔はしていたはずだ)内心ほくそ笑んでいたくらいには苦手だった。

だから、中学校以降は個人競技の陸上部に入部した。それはそれで楽しかったしやりがいがあった。

社会人になり、「社会性」というお行儀を叩き込まれるわけだが、そのひとつが「輪の中に入り、その中の人と同じ想いでいる」という所作だった。

持ち前の演技力で、なんとかその場しのぎでやり過ごせているつもりでいた。

しかしながら、1社目を退職するその日、恒例のお別れ会の「最後のあいさつ」という演説中もまったく感動的な空気を作れずに、場をしらけさせたばかりでなく、同僚にマイクを渡して僕との思い出を語ってもらい、ようやく場がまとまり、その同僚に盛大な拍手が向けられたこともあった。

先日、会社の研修があった。アセッサーと呼ばれる「人間観察」のプロに、丸3日間ひたすら監視され、最後の面談で「君さ、人当たりは良いけど、人に興味ないよね」と言われ、思わず「ご名答!」と拍手を贈りそうになった。

さすがに大人の所作としてその場を取り繕うことはできる。それでも相変わらず集団の輪の中で「同じ想い」でいることができないのだ。もっと言えばそこに漂う空気感に薄ら寒さすら感じてしまうのだ。

そういう態度は、しばらく経つとアセッサーよろしく大抵バレてしまう。小学生の頃から今でも続く僕の小さなコンプレックスである。

僕は、集団行動が苦手だ。

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先月、足掛け半年にわたるプロジェクトが終わりを迎えた。最終的には30名程度が関わる大きなプロジェクトだった。

プロジェクトが走りはじめの頃は難航していた。僕の持論やこだわりを周りにぶつけては、自身の説明力の欠落を棚上げして「違う」とダダをこねていた。それでも辛抱強く僕の隣で「この人が言っているのはこういうことでして…」と僕を擁護しながらわかりやすく周りに説明してくれる同僚がいた。

要はとんでもなく優秀な人で、その人がいたおかげで話はどんどんまとまり始め、チームにリズムが生まれ、僕からは出てこないアイデアがいくつも生まれた。彼がいたから、チームは最後まで心地よい雰囲気のままプロジェクトを進めることができ、最高の形で終わることができた。

プロジェクトが終わったとき、僕は気付いたらチームメンバーに「集合写真を撮りましょう」と口にしていた。あれだけ集団行動が苦手だった僕が「同じ想い」を形に残したいと思ったのだ。

帰り道、ずっと隣で支えてくれた彼からメールが入った。

「おかげさまで“思い出”となる案件になりました。ありがとうございました!」

「思い出」なんて言葉、久しく使ってなかったなぁ、と思わず頬が緩んだ。一旦メールを閉じ、さっき撮った写真を見返してから、彼に一言だけ返信をした。

「また、同じような思い出作っていこう」

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先月末で、半年間一緒に仕事をしていた後輩が職場を離れることになった。

とにかくよく笑う子だった。そして最後まで誰かを非難する言葉を聞くことはなかった(僕は散々口にしていたように思う)。いるだけで場が明るく前向きになるような、素直でていねいな人だった(本当にそんな人はいるんです)。

その人柄のまま、仕事ぶりもとてもていねいで、抜けがちな僕の仕事をいつもさり気なくフォローしてくれていた。周りからの信頼も篤く、いつも彼女には相談ごとが舞い込むような空気があった。

僕とは対極にいる人だ。そう思っていた。僕はいつもブルドーザーのように自分の意思のまま「進める」ことが最優先で、チームメンバーの考えていることは二の次だった。いや、正直に言えば、今まで人が考えていることを気にすらしていなかったように思う。

だから彼女にしてあげたことはほとんどなかった。ただ毎日のように僕が理想を語り、彼女自身のやりたいことを聞いた。そしてなるべく彼女が具体的に動けるように「足場」を用意した。そのくらいしかできなかった。

結果的には、彼女の求心力もあって、半年の間とはいえ今までやれなかった取り組みをいくつか打ち出すことができた。そのうちのいくつかは成功と言っていいものもあった。

最終出勤日。終業時間まであと1時間程度ということろで彼女は突然隣で泣き出した。あまりのことで戸惑った僕は(そもそもそういうのに慣れていない)バカみたいに「おつかれさま」と繰り返し口にすることしかできなかった。

帰り道の電車の中「感謝しかないんです」とメールが送られてきた。おそらく僕以外の関わった人全員に同じような言葉を送っているんだろうなと、僕は少し笑った。律儀な人だ。そう思った。

そして「あぁ。寂しいな」と呟いていた。

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先日、仕事で小さなトラブルが起きた。なんとか収束させようと、パートナー会社の若いスタッフ(まだ新卒2年目くらいか)が一生懸命に関係各所に駆け回り、調整をはかってくれた。

「ご迷惑をかけて申し訳ないです。なんとかします」と週末の深夜、電話口で話すそのスタッフの切迫した真剣な声に(とても早口な人なのだ)、僕は自然と「なんとか無事に終わったら飲みにでも行きましょうか」と口にしていた。

一瞬の間のあと、「ぜひ!まだ行けてないですし!」とこれまた早口で高揚した声で返してくれた。社交辞令かもしれないし、ただの飲みの口約束だ。でも僕はその彼の言葉がとても嬉しかった。電話を切った後、鼻にツンとくるものがあった。

オフィスを出たとき、昼間のジメッとした空気が嘘のように澄んだ空が待っていた。

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僕は、集団行動が苦手だ。

理由は先に述べた通りだ。「同じ想いでいよう」という同調圧力がどうしても苦手なのだ。その言葉に内包されている「足並みを揃えつつ、誰かのために頑張りなさい」という押しつけがましさがどうも馴染まないのだ。そんな綺麗事だけでうまくいくはずがないと、心のどこかで思っているのだ。

でも僕は気付き始めている。

誰かのために頑張るのではなくて、誰かがいるから頑張れるということ。その先に「同じ想い」が待っているということ。さらにその先には、嬉しさと寂しさが待っているということ。その寂しさは、また誰かと喜びを交換したいと思わせてくれるということ。

たぶん、人はそんな簡単に変われない。僕は僕で、これからも集団行動は苦手なままなんだろう。それでも、今年の梅雨時に関わってくれた人からもらった嬉しさと寂しさは、また味わってみたいとも思っている。

僕は今、ほんの少しだけ、集団行動をしたくなってきている。

文・写真:Takapi

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