忘れることの傍らにはいつも

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先日の土曜日、僕は友人と渋谷で会う約束をしていた。

渋谷駅から少し離れた待ち合わせ場所へ歩いて向かうなか、こちらに向かって歩いてくる人混みの中に見知った顔を見かけた。

「懐かしいな」と思うと同時に、彼と楽しく笑いあったいつかの風景が頭の中に浮かんだ。久々の再会に僕の気持ちは昂り、声をかけようと彼の方に足を向けかける。そこではっと思いとどまる。

どうしても思い出せないのだ。彼と僕がどういう関係でどんな話をしていたのか、それ以前に彼がそもそもどんな人だったのか、とんと思い出せないのだ。どこかで会っていたのは確かで、「友人」の部類に入る人だということは、あの“笑顔の交流の映像”からもわかっているのだけれど。

記憶の扉(そんなものがあるかはわからないけれど)をノックするように鼓動だけが早く大きくなる(単に慌てふためいていただけかもしれない)。

ふたりの距離が近づいていく。一方で彼は僕には一向に気が付かない。眼前に広がる“顔の景色”のひとつになっている。

じれったい。いっそ声をかけようかと小さく決意を固める。けれどその決意はすぐにしぼんだ。僕は目の前の人を呼びかける名前すら憶えていないのだ。

「ねぇ君。憶えているかな?僕だよ。僕は君のことは憶えてないのだけれど」こんな声のかけ方をするのはとても失礼であるとわかるくらいには僕は大人になっている。大体彼の方も憶えてなかったらどうするのだ。

そして声をかけられないまま僕らはすれ違った。

待ち合わせ場所で友人と落ち合い、喫茶店で話をしているときもさっきの彼の顔が頭にこびりついて離れなかった。

大学のサークルやバイト先、社会人の同僚や後輩、さらには高校まで遡って部活のメンバーの顔などを思い出してみたけれど手がかりは見つからなかった(結局今でも思い出せていない)。

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友人との会合を終え新宿の東口周辺をひとりぶらりと歩く。通りの向こうを見上げれば遠くに新宿新都心の高層ビルの群れが見える。

僕が大学を卒業してから6年間在籍していた会社が遠いビル群の中にある。

あのビルを見上げる度に、社会人生活の懐かしい日々をまとめたダイジェスト映像が頭の中で流れ始める。この日ももれなく流れ始めた。

毎日のように上司から罵声を浴びながらも、気の合う仲間と馬鹿笑いをしながら過ごした日々からもう8年が経とうとしている。にも関わらず、あのビルが目に入る度に僕の頭の中でその映像は流れだす。

何度も何度も。いつも決まって、そうなのだ。

僕らはまるで自分の身体の中にスイッチが埋められているかのように、目に入ったり匂いをかいだ途端、自然と過去にタイムスリップさせるモノを抱えながら生きている。そして年齢を重ねるほど抱えるモノは増えていく。

忘れたことのそばには大切な記憶がうずくまり、記憶のすぐ後ろには忘れたことが眠っている。

それらは時として冷酷に思い出すことを拒絶し、時として都合よく「思い出」に仕立てて眼前に現れては、僕を惑わせたり震わせたり、慰めたりする。

本能的に。そしてきっと、意識的に。

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5月があっという間に過ぎ去り、ほこりっぽいにおいと新緑の青いにおいを引き連れて今年もまた雨の季節がやってきた。梅雨だ。

五感すべてを通過する季節の記憶は一等鮮やかな色彩を伴って僕の身体に染みついている。

季節のはじまりは、そんな鮮やかな記憶を呼び起こし立ち止まらせる分、いつも少しだけ静かだ。

例外は夏。夏のはじまりはまるで祭りのように「ヨーイドン」と前を向かせ走らせる。風が秋の気配をまといはじめてようやく、過去の夏までひっくるめて振り返らせるのだ。不思議なのだけど。

季節はじめの静かな時間は年齢を重ねる度に増えていく。そのことが少しだけ寂しくも嬉しくさせる。

近所の緑道の緑のトンネルの下、通り全体が影になった砂利道を歩きながらふと、幼き頃に見た父の背中を思い出した。

その記憶の中で僕は、同じような緑道の砂利道を歩く父の背中を追いながら、父の履いたサンダルの踏む「ギュッギュッ」という音を真似たくて、一生懸命地面を踏みつけるようにして歩いていた。

あの音は、重みだ。だから子どもには到底鳴らせない音なのだけれど、子どもには分かるはずもなく、僕はただ悔しくて、自棄になって地面を踏み続けていた。

きっと地団駄を踏んでいるようにしか見えなかっただろう、振り返り少し困ったような顔をした父の顔が浮かんでいる。

そんな過去の記憶を、近所の緑道は連れてきてくれた。

思い出せて良かった。

ベランダの外、彩りをまとった紫陽花を眺めながら思う。

ひょっとしたら僕らは、忘れることを覚えてはじめて、記憶に残す意味を知るのではないだろうか。
そうだとすれば、記憶に残すことは未来の自分を守るための強い意志ということになるのではないだろうか。
そして「思い出」はそんな意志の顕れなのではないだろうか。

柄にもなくそんな大それたことを思った。

先ほどから降り出した雨は今も降り続いている。
それでも僕らは知っている。のんびりと待っていれば明るい陽射しが降り注ぐことを。

それが祝祭の意味をもつことも。

文・写真:Takapi