距離感

本来であれば、大学時代のサークルの友人の結婚式に参加するため、北海道に行っているはずだった。

式の日取りが決まった半年前から、結婚式に招待されたサークルの仲間同士でLINEグループを作っては、前日入りするかどうか、何をして遊ぶか、など賑やかな会話が行き交っていた。僕も久々の再会を楽しみにしていた。

それがGW前後で東京・北海道で緊急事態宣言が発出されてから雲行きが一気に怪しくなった。

それからというもの「1日くらいなら大丈夫だろう」「それでも、もし感染してしまったら」と頭の中の楽観と悲観がしのぎを削って戦う日々が続いた。悩みに悩んだ挙句、式の2週間前に欠席する旨を伝えた。聞けば周りの友人のほとんどは現地で参加することにしたようだった。

式の前日、新郎になる友人からzoomのURLが送られてきた。ニュースなどでは見て知っていた「zoom結婚式」だ。
まさか僕が体験することになるとは。果たして画面越しにみる結婚式を楽しむことができるのか、まったく自信がなかったから(というか無謀な挑戦に見えた)、近くのクラフトビール屋さんでしこたまビールを買って当日を迎えることにした。

当日、定刻にzoomに入れば、無人のチャペルが目に入る。神父が立つ場所の近くから会場全体をぼんやり映していた。少しして参列者が入ってくる。現地のネット環境が悪いのか画像が粗い上にBGMも途切れ途切れだ。

予想通り式は淡々と進行した。何度も見てきた光景だ。進行は見なくてもわかる。時折画面に目を向けて式の進行具合を確かめつつ、ビールを飲んだりスマホを覗いては時間を持て余していた。

それでもふたりが宣誓をするシーンでは、彼らの言葉を拾わんとパソコンの画面にスマホを向けて動画を撮った。そして小さく「おめでとう」と呟いていた。

滞りなく式は終了し、画面は披露宴会場に切り替わった。
無人の披露宴会場に式場のスタッフの方々が忙しく目の前を行ったりきたりしている。

やれやれ、この画面をあと2時間以上も見続けるのか。こんなことなら無理してでも行くべきだったな、と少しげんなりして2本目のビールを開ける。

ほどなくして披露宴会場にゲストが続々と入ってくる。画像は粗く音声は途切れ途切れのまま。友人たちを見つけることもできない。

事前情報として、このご時世だから全員マスクは必須、お酒も提供されずに会話も最小限に、という「お触れ」が出ていることは知っていた。そんなことだから画面越しに始まった披露宴は、僕が知っているそれとはほど遠く、どちらかというと豪華なビジネスカンファレンスを覗いているような感覚になった。

要はとても静かなのだ。かすかに聴こえるBGMと司会者の抑制のきいた声が響くだけ。そこに重ねるように単調な「ご挨拶」が続く。だんだんと眠くなってくる。たまらずスマホを取り出し、現地参加している友人たちのLINEグループを開く。

「スピーチ間延びしてない?」
とメッセージを送ってみる。

ほどなくして数人からメッセージが返ってくる。
「新郎の目が死んでる笑」
「司会者が○○(芸人)に似てる」
送られてきたメッセージにはご丁寧に死んだ目をした新郎の写真と、司会者の写真が添えられている。

そこから何かのスイッチが入ったのか、ほぼ2時間ずっと友人たちと「おしゃべり」をすることになった。
不思議な感覚だった。画面越しにいるはずの遠く離れた友人たちとスマホ上で会話をしている。でもそれがなんとも楽しい。

披露宴が終わる頃、1分程度の動画が送られてきた。
気を利かせた友人が、新郎と友人達の席を回っては僕宛のメッセージを集めてくれた。

お酒が入ってないからか、一様に面白味のないコメントだったけれど、ふいにこみ上げてくるものがあった。わざわざ動画を撮ってくれたことが嬉しかったのもある。ただそれ以上に感じたのは「あぁ、みんな生きてたんだな」という当たり前のことだった。

そしてその時になってようやく、今僕らは距離を隔てているのだということを実感した。実感したら余計に友人たちに会いたくなった。新郎に「おめでとう」と直接声をかけたくなった。

気持ちを鎮めるように一度スマホを脇に置き、ビールを一口飲んでから「ありがとう。飲みたいね」とだけ返信をした。

リモートで仕事をすることが当たり前になり、オンラインのやりとりにも不足を感じないようになった。わざわざ会いに行って互いの意志を確認をせずとも仕事ができてしまうことに、そして一度も会わずに仕事が終わることにすら不安も不満も感じなくなってきた。

今進行しているプロジェクトも新しいパートナーさんと進行している。しかしながらいまだ一度も会えていない。週に1度程度のオンラインの打ち合わせを繰り返し丁寧に意思疎通をしてきたつもりだったし、うまくいっているようにも思えていた。しかしながらここにきて、それは思い込みだったことに気づかされることになった。

出てきたアウトプットがどうしてもこちら側の意図を反映しているものに思えないのだ。なんならやっつけ仕事のようにすら思えるような出来栄えだ。

これまで何度も打ち合わせをして伝えてきたことはなんだったのだ。口には出さずとも出てくる語気は強くなってしまう。パートナーさんも僕の空気を感じたのか身構えるような口調になる。空気が硬くなっていくのがわかる。

「このままではいけない」咄嗟に繕うように、改めて今回のプロジェクトにかける思い入れを話すことにした。上がってしまった体温を鎮めるように丁寧に説明するつもりが、思いと反してどんどん熱を帯びた口調になってしまう。自分でもわかるくらい支離滅裂な内容でもあった。

「ようやくわかったような気がします」
一通り話し終えて息切れした僕の呼吸が戻るのを待ってからパートナーさんはそう言った。

「え。今ので?」こちらとしてはまったく手応えがない。
「ここまで伝えていただいたのははじめてです。大変失礼しました。次は大丈夫だと思います」
そこまで言うと、パートナーさんにようやく笑顔が戻った。

その後は事務的な打ち合わせを経て「退室」となった。画面から人の姿が消えてからようやく大きく息をつくことができた。そこではじめて脇と掌と首筋が汗ばんでいることに気づいた。

好むと好まざるに関わらず、1年以上前から蔓延している感染症は、実質的な人との距離を遠ざけることと引き換えに、人間関係における「距離感」を極めてゼロに近づけることに成功した。

距離感の喪失は「どこでもドア」さながらインスタントに会える機会を拵えられる反面、これまで対面して伝えられていた機微を奪ってしまう。その弊害が今いろんなところで噴出しているような気もする。個人的なことであれ、社会的なことであれ。

距離が奪われるということは、本来そこにたどりつくまでの道程をショートカットすることであり、その道程とはつまり「想像する」ということなのだと思う。

友人の結婚式に遠隔で参加し、仕事で画面越しに汗をかいたことでわかったことは、逆説的なようだけど「距離がある」ことを知ることで取り戻せることがあるかもしれないということだ。

紛れもなく今日も、そこに人はいる。
一定の距離を置いて、そこにいる。

その距離を思うこと。
その距離を忘れないでいたい。

文・写真:Takapi