固執

半年前くらいにInstagramをぼんやりと眺めていた時に再会してしまったのが事の始まりだった。今から25年前、中学生の頃、あまりにもプレミアムがつき過ぎて手の届かなかったエアマックス。そのエアマックスの中でも、散々リバイバルされ続けている「ドル箱」の95でも97でもなければ、その独特なデザインから賛否がわかれた96でもない。ほとんど注目もされずに歴史の彼方に追いやられてしまった「エアマックス96 Ⅱ」がスクリーンの中に突如として現れたのだ。

「胸をつかまれる」というのはああいうことを指すだろう。なぜかその姿が頭に居座ってしまい、その日以降毎日のようにgoogleで、NIKEの公式オンラインショップで、Instagramで「エアマックス96 Ⅱ」を探す日々が続いた。

中学生当時を振り返っても、その商品は仲間内では大した評価ではなかったと思う。おそらく誰も履いていなかったのではないだろうか。むしろ履いていたら「ダサい」と笑われるような代物だったかもしれない。

しかしながら25年ぶりに「エアマックス96 Ⅱ」に再会してからというもの、頭の中のほとんどが「エアマックス96 Ⅱ」で占められた。固執していると言ってもいいくらいにその姿を追い求めた。

よくよく調べると昨年末くらいにリバイバル商品として出されていたらしい。しかしながら公式ショップには既に姿はなく、あやしげなオンラインショップでは定価の1.5倍〜3倍くらいの値段で売られているだけ。さすがにそこで買う勇気はなかった。それでもInstagramで「エアマックス96 Ⅱ」を見つけると、その度に胸がはやるような気持ちに苛まれた。

入手することはできないだろうとなかば諦めていた7月某日、「エアマックス96 Ⅱ」は再び公式ショップで姿を現した。「なぜ?」「ほんとに?」胸の高鳴りを抑え、手汗のかいた指で何度もそのサイトが本物かを確かめ、5分後に購入ボタンを押した。

ここまでおおよそ半年ばかり「エアマックス96 Ⅱ」に固執させ続けたものの正体は一体なんだったのだろう。青春時代特有の「何か」を取り戻したかったのか、もしくはあの頃に踏ん切りをつけたかったのか。その理由は今でもわからないけれど、もし「こじらせ消費」という言葉があるのであれば、今回の行動は間違いなくそれに当たると言える。

さて、購入して二日後に届いた「エアマックス96 Ⅱ」だが、散々あれだけ気持ちがたかぶっていたくせに、いざ手元に届いた瞬間から徐々に気持ちが冷めている自分がいた。いや、白状すれば手に届いた瞬間にはもう飽きてすらいた。

あれだけ欲しがっていた「もの」は一体なんだったのだろう。ぼんやりと見えてしまいそうなその恐ろしい正体から目を逸らすように、ほとんど毎朝「エアマックス96 Ⅱ」を履いて散歩をしている。

固執と聞いてもうひとつ頭に浮かんだのが家で使っているカレーのスプーンだ。

どこにでも売ってそうななんて事のないスプーンなのだが、子どもの頃からずっと使っていて、結婚してもなお実家から持ってきてはずっと使い続けている。ここ数年、器好きが高じて毎月のように買い付けては毎度置く場所に頭を悩ませる中にあって、カレースプーンだけは不思議とどんなスプーンを見ても「響かない」のだ。

以前、何かの景品で「カレー用に開発されたスプーン」なるものを頂戴したことがあった。なにやらカレーのルーと具材がちょうどよく乗る深さを計算されて作られたものらしく、ものは試しと使ってみた。

しかしながらどうも僕の口にはフィットしなかった。口に運んだ時の「カレー感」が弱いのだ。カレー感というのはどんなものかを聞かれてもうまく答えることはできないのだが、とにかく言えるのは、最高の「カレー感」を堪能できるのは子どもの頃から使っているスプーンなのだ。頂戴した「カレー用スプーン」はひき出しの奥にしまわれることになった。

このスプーンについて言えば、愛着という言葉をこえて固執していると言われても否定はできない。ついでに言えば、カレーの味の好みは大人になってガラリと変わっている。にも関わらずフィットするスプーンだけは変わらないというのも不思議だ。固執だ。

同じように、偏屈なまでに固執していたものにランニングシューズがある。中学高校と陸上部でずっとMIZUNOを履いていたこともあって、大人になり、ジョギングがささやかな趣味になった時も、選んだシューズはMIZUNO一択だった。それ以外のメーカーは評判やクチコミを受け付けないほどのMIZUNO信者だった。

それが数年前からはNIKEを履いて走っている。きっかけは箱根駅伝のランナーが全員NIKEの、しかも同じシューズを履いていたことだった(さらに言えばそのシューズそのものがものすごくかっこよかった)。その光景を目の当たりにして、それまでのMIZUNOへの偏狭なくらいの愛情はなんだったのかと思うくらい、あっさりとNIKEに鞍替えしてしまった。

こんなことだから、ある日突然出会った運命的なスプーンにあっさり目移りする日もそう遠くはないのかもしれない。

何かを無性に手に入れたくなったり(手に入れた途端にすぐ飽きたり)、はたまたそれ以外を一切受け付けなくなるようなことはある。その衝動のような思い入れは、時に愛着という優しいベールに隠されることもあれば、「見る目がある」と賞賛されることだってある。

でも、欲しがることも受け付けないことも、「それ以外が見えなくなる」という意味においてはそんなに変わらない。さらに言えば、ふとしたきっかけで180度変わることだってある。それだけ、人の気持ちは移ろいやすく、留まりやすく、かたい上にもろいのだ。

何を選び何を拒むのか、その裏側で何を欲しがっているのか。わからないことの方が多いし、わかる必要もないことの方が多いけれど(いちいちひとつひとつ吟味していられない)、時に立ち止まっては、その愛着の裏に、固執の手前に、何があるのかを自身に問いかけてみるのもいいかもしれない。

日々世の中で起こる事象に対して、脊髄反射的な「イエス・ノー」「好感・嫌悪」「良い・悪い」「かっこいい・ださい」といった二極化した言葉が流れる中にあって、自身の中のささやかな「固執」の元を知ることは、大きな濁流に飲まれることを止めるひとつの方策のようにも思うのだ。

文/写真:Takapi