外のテーブル

半年前にオープンしたばかりの、マンションの1室を改装したそのバルは、キッチンに面して大きな長方形のテーブルがひとつあるだけのシンプルな佇まい。大きなテーブルの3つの辺に1組ずつ着席するスタイルで、キッチンにいる店主と相対しながら囲むような格好になる。

マンションの一室がお店になるからお店に入るにはオートロックのインターホンを押す必要がある。マンションの前には看板も出ていないしネットを見てもほとんど情報も解禁していない。1日3組限定の、まさに「隠れ家」的なバルとも言える。

お店の特徴を言葉にすると、一見さんお断りの頑固な店主が構えたお店にも映るけれど、実際には、朗らかな雰囲気の女性がひとりで切り盛りしている。その雰囲気がそのまま反映されたようなやさしい味わいの料理と、それでいてたしかな目利きで選ばれたナチュールワインが気に入って定期的に通うようになった。

小さなお店でさらにテーブルを囲んでいるからか、自然とそこにいるすべてのお客さんの話が耳に入ってくる。それが邪魔にならないのはきっと、お店にいるすべての人たちのが寛いだ声をしているからだろう。そのアットホームさは徐々に客同士も打ち解けさせる。その雰囲気もあわせてこのお店の心地よさでもある。

先日訪れた時は僕ら夫婦が一番乗りだった。1杯目のワインを楽しみ終えた頃、残りの2組が来店してきた。

1組は友人同士と思われるベテランの女性3人組で、席に座るなり楽しそうに近況報告をしている。もう1組はお一人様の若い女性。緊張した面持ちでメニューと睨めっこしている様子を見ると大学生くらいにも見える(ここでは話をわかりやすくするためにその若い女性客を「女子大生」とする)。

3人組の方は常連なのか店主と軽い会話を始める。数分のやりとりの後、はじめのオーダーを受けた店主は、すぐさま女子大生に向き直り「今日はどうしましょう?」と笑顔で声をかける。その一言でメニューと睨めっこしていた女子大生の表情がふっと緩んだのがわかった。その後いくつかのやりとりを経てワインと数品の料理を決められたようだった。

それから30分くらいは各々が料理とワインに舌鼓を打ちながらそれぞれが会話を楽しんだ。その間も女子大生と店主は何度か言葉を交わしながら解けた空気が作られていた。そのやりとりが姉妹のようにも見えて微笑ましくてついつい目を向けてしまう。

均衡を破ったのは、店主から女子大生に向けられた「そういえば、この店はどうやって見つけてくれたのですか?」という質問だった。

その質問を聞いた僕ら2組は、示し合わせたように会話をピタッと止め彼女の回答を待った。少しの間を挟んで「実は、先月上京してきたばかりで」と話し始めたものだから、その場は突如として「人生の先輩達」が彼女の身の上話を聞く場に変わることになった。

聞けば、彼女は昨年社会人になったばかりで、半年前までは関西地方で教師をやっていたとのこと。夢見た職業ではあったもののこのコロナ禍だ。生徒にも会えないまま次第に自信をなくしていき、結果としては半年で教師を辞めることになった。運良くその後すぐに次の職場が東京で見つかり、先月から上京してきたということらしい。

話を聞きながら「そんなことがあったの」「大変だったわねぇ」「でも良かったわね」などと相槌を打つ僕らは完全に「保護者」と化していた。

「このお店はInstagramで知ったんです。とても雰囲気が良いなって。それで…来月友人が誕生日なんです。せっかくならこのお店でお祝いしたいなって思って、今日は下見としてひとりで来てみたんです」

それを聞いた「保護者」たちは「いい話ねぇ」「素敵!」などと囃し立てる。ずっと頷きながら話を聞いていた店主は「とても嬉しいです。こういうこともあるんですねぇ」と目を細めた。

そして一呼吸置いて、「いい日だ」と店主は呟いた。

テーブルを囲むということは人生を分かち合うことなのかもしれない。

まだ冷え込む夜道を歩きながらそんなことを思った。そのことを妻に伝えれば「大袈裟ね」と笑った。

大袈裟。たしかに言われてみればそうだ。テーブルを囲むということであれば、妻とはほぼ毎日食卓を囲んでいる。とは言え、ふだんの食卓を振り返って人生を分かち合うほどの会話をしているかと問われればノーだろう。ふだんの食卓の会話は、もっとなんというかぼんやりとしている。うすく流したテレビを見るともなく、明日の予定を聞いたり、今日の料理にコメントしたり、ちょっとした愚痴をこぼしたり、そんな風にして毎日の小一時間の食卓の時間は過ぎていく。

コロナ禍になり、互いに在宅で仕事をするようになってからは余計にふだんの食卓の会話は簡素になったような気がする。仕事を終えて間を置かずに食卓を囲むからなのか、単純に食卓を囲む回数が増えたからなのか、理由はわからないが今まで以上に食卓の会話はぼんやりとしているようにも思う(僕としては特段不満があるわけではないけれど)。

代わりに、といういわけでもないけれど、近所の「行きつけ」のお店に出かける機会が増えた。さっきのバルももちろんだが、朝早く起きて少し遠いカフェに自転車で行ったり、美味しいランチを食べに小さなカレー屋さんに行ったり、平日の昼時に仕事の合間を縫ってコーヒースタンドにコーヒー豆を買いに行くこともある。

不思議と「外のテーブル」では互いに饒舌になるらしく、お店の人との何気ない会話をきっかけにして、仕事の今後の展望だったり、いつか行きたい旅先のことだったり、ふたりの暮らしの将来についてだったり…ふだんの食卓よりも快活で前向きな会話が繰り広げられるのだ。

そんな「外のテーブル」のやりとりがとても良い息抜きになっていて、今の僕にはとてもフィットしている(妻がどう思っているかは知らない)。

もう結婚して10年が経つけれど、ようやくわかってきた夫婦関係を維持するささやかな秘訣は、僕らのことを「ちょっと知っててほとんど知らない人が待ってる場所」をいくつか持つことなのかもしれない(妻の意見は違うかもしれない)。

どんなに良好な関係でも、閉じこめれば空気は淀むもの。「外のテーブル」には空気を浄化する効果もあって、それはつまり人と人のつながりを取り戻す役割も持っているということだと思う(たまにつながりを「生み出す」ことさえあるのだ)。

「外のテーブル」は催促もせず、期待もかけずに今日も街で待ってくれている。それは暮らす上でとてつもなく大きな安心だ。このコロナ禍で、お店がなくなっていくのを目の当たりにしてようやく気付くことができた。

「外のテーブル」が続いていくことを願って。

文・写真:Takapi

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