感性

この年齢になってはじめて絵を買った。

きっかけはとある雑貨屋で行われていた個展。器作家さんの個展だったのだけど、器以上に壁に飾られていた絵になにか引き込まれるものを感じて、店員さんに絵の作者を教えてもらった。

後日その方のInstagramを眺めていたら、タイミングよくオンラインでの発売予告をしていた。発売日は開始時間をドキドキしながら待った。まるで高校生の頃、好きなアーティストのCDをフラゲしにCDショップに行く時のような感覚だった。

無事に購入でき、2週間後にその作品は届いた。

作品はダンボールやら緩衝材やらビニールやらで丁重に梱包されていた。じれったさを噛み締めながら丁寧にひとつずつ剥がしていく。いざ作品を眼前にかざした時は、「あぁ」だとか「ふわぁ」だとか、いずれにせよ小さく声が漏れ出ていた。

手に取って絵を見つめていると、すぐに何故か手に持っているのが心許なくなってしまい、早々にダイニングの壁に飾ることにした(それが冒頭の写真だ)。

作品を目の前にしてしばらく眺めていると不思議な感覚に陥った。いくつかの言葉が断片的に頭を通り過ぎてはその作品を言葉で表そうとするのだ。

「躍動感のある青々しい風が吹いたかと思えば、その奥に水面も揺れない静謐な泉があるような、温かいような冷たいような、生々しいような無機質のような」そんな風にして言葉が頭の中を駆け巡っていった。

その日以降、作品を目にする度に、波打ち際で揺蕩うような、草原の中そよ風に吹かれるような、大袈裟に言えばそんな感覚を楽しんでいる。

おいしいナチュールワインと料理のペアリングを楽しめるレストランが近所にある。先月行ったばかりなのに早くももう一度行きたくなってしまって先日再訪した。

月替わりでコース料理を変えるお店なので新しい料理を楽しみたいというのもひとつの理由だったけれど、カウンター席で料理とお酒を楽しみながらシェフやソムリエとの会話を楽しめるのも大きな理由であったと思う。

今回も前回同様、感動の連続だった。シンプルな調理なのに組み合わせのアイデアが光る料理と、料理の味わいをしっかり引き立てるお酒の応酬に呆けていると、シェフがつと「なぜもう1回来てくれたのですか?」と聞いた。前回僕らが来たことを覚えてくれていたらしい。

新しいコースを楽しみたかったから、話が面白いから、と当初頭の中にあった理由を並べてみたものの、話し出すとなんとなく違う気がしてきて、「うーん、なんでなんでしょうね?」と聞き返してしまった。

その話は一旦そこで終わり、その後も引き続き料理とお酒についての話を楽しんだ。話を聞いているとシェフは「ふつうは」という言葉が口癖であることに気づいた。

「春であれば“ふつう”は料理に緑を使いたがるのだけど」
「コース料理は“ふつう”はひとつわかりやすいピークを持っていきたくなるのだけど」

それら発言の後には、「でも」が続く。

「僕は早春であれば“黄色”の方がしっくりくる」
「ピークを持ってきたがるのはシェフのエゴだと思う。僕はあまり作為的なことをしたくない」

その話を聞いてひとつのことが思い当たった。
前回食べた料理のことをほとんど思い出せないのだ。

とても美味しい記憶がある。驚いた味わいもある。感動の連続のはずなのに、その場を括る言葉が見つからないのだ。

それはきっと、シェフの出す料理が「これまで僕が経験したことと類似するものがない」からなのだと思う。

メインは上質な肉をシンプルに焼いたもの、とか、春なら瑞々しい野菜を使った料理、とか、大抵は「重ねられた」記憶を引っ張り出して、その記憶と比較しながら、適当な言葉を見つけてようやくその対象を言葉で括ることができる。

けれどこのレストランの料理にはその比較対象がない。だから記憶がするっと抜けていってしまったのではないだろうか。

そして手元に残る記憶は「いい体験だった」という感覚だけ。

このお店に行きたい理由がようやくわかった。
言語化できないものを体験したいからだ。

その理由がわかったのはお店を出た後だった。
このことを伝えにまた来月も足を運ばなくては、と思った。

今の仕事について、業界向けのセミナーに登壇する機会をいただいた。その中で「感性はどう維持しているのか?」という質問をもらった。

「うーん」としばらく唸ってしまった。僕自身、とてもではないが感性が「ある」とは思えないからだ。結局その場では答えられず会は終わった。

感性。

磨くや腐るといった言葉がセットになるように、その言葉には鍛錬と継続の必要性を感じるニュアンスがある。少しマッチョな言葉だ。

それはそれとして僕にとって「感性を感じる人」というのはいる。それは大雑把に言ってしまえば「手仕事」をしている人だ。

触れることを通して対象物を深く知り、その蓄積された「知覚」をもって、新しいモノを作り世の中に向けてアウトプットする人たちは皆、僕にとって感性を感じる人だ。

絵を描く作家もそうだし、料理を振る舞うシェフもそうだ。今着ている服だって着けている眼鏡だって、このコラムを書き込んでいるラップトップだってそうだ。そう考えると僕は「感性を感じる人」に常に囲まれ接しながら暮らしている。

感性を維持するというのは、僕にとって言えば、「感性を感じる人」が提供したものに触れる機会を通して、なるべく言葉を尽くしてみることで(それは往々にして言葉になりきれないのだけど)あって、言い換えれは「感性を受け取る」というようなことなのかもしれない。

では感性を受け取るといいことがあるのか?
それははっきり言ってわからない。

けれど「言葉で表すのが難しい感動が大なり小なり暮らしの中にたくさんある」というのは、常に正解を求められる日々の暮らしにおいて、一時のアクティビティのような爽快感を感じることではある。

だから僕は今日も明日も、ダイニングに飾られた絵を眺めることにする。

文/写真:Takapi