明日の夕飯

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「明日の夕飯、何食べたい?」
とある平日の夜、食卓で面と向かって夕飯を食べている妻にそう声をかけていた。ふだんのいつも通りの会話の流れで、何も考えずに出てきた言葉だった。

「ちょっと待って。今それを聞くの?」
とふきだした妻。一拍置いて「あぁ。そっか」と納得した。今まさに夕飯を食べているこのときに翌日の夕飯の話をするというのはなんとも間が抜けている。「たしかにそうだね」と僕も笑った。

でもそのとき、なぜかは分からないけれど「こういうのはいいな」と思った。なんなら家族ってこういうものかもしれないと少し大げさなことさえ思った。妻にとってはただ迷惑な話かもしれないけれど。

結婚して8年になる。
その間大きな問題もなく(少なくとも僕の中では)、いわゆる夫婦生活を平穏に過ごしている。

あんな間の抜けた会話があったから、というわけではないけれどぼんやりと8年間を振り返ってみた。

いろんな場所にも行ったし、いろんなものも見てきた。
いろんな話もしたし、いろんなことを言われもした(大抵は尻を叩かれている)。

でもどれもぼんやりしている。
つまらなかった、印象に残っていない、ということではない。ただあまりに同じような(とても平穏な)時間を過ごしているからか、全体的にぼんやりしているのだ。「あぁ、いつもの雰囲気だ」という安心感に似たような感覚だけがある。

代わりに浮かんでくるのは「ありがとう」という声の響きだ。

妻は何をするにも「ありがとう」というのが口癖なようで、僕が食器を洗えば「ありがとう」(そのあとたまに妻が洗い直している)、僕が洗濯物を畳めば「ありがとう」(ついでに畳み方の指導もそのあと入る)、掃除をすれば「ありがとう」(来週はもう少し念入りにお願いね、もセットで)とまずは褒めながら礼を伝えてくれる。

この「ありがとう戦略」が効果てきめんで、その証拠としてこの8年間で僕の家事量が圧倒的に増えているのだ。そして何よりすごいのが(おそろしいのが)家事が「楽しい」と思えてしまっていることだ。なんなら「今日も家事に参加させてもらってありがとう」とさえ思っている。

「ありがとう戦略」で完全に術中にはまった僕だが、普段の暮らしの中で僕から「ありがとう」としっかり伝えたことはあまりないように思う(非難の声が聞こえる)。

ここで改めてお礼を申し上げたい(たぶん読んでないだろうけど)。

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普段の暮らしの中だけではなく、妻のありがたさを感じることはたくさんある。

たとえば、僕が車をぶつけてしまったとき、慌てふためいている僕の様子が可笑しいとケラケラと笑ってくれたことや、ふたりではじめて行ったキャンプのとき、火を起こせない僕を罵りながらも立派な火を起こしてくれたことなど、数え上げればキリがない。

たくさんあるのだけれど、今日はひとつだけ紹介させてもらう。

それは昨年仕事が行き詰ったときのことだ。
その頃の僕は何をやってもどうにもこうにもうまくいかず、むしろ動けば動くほど悪い方に向かうようで、なかば投げやりになっていた。

あまり仕事の愚痴は言わないように決めていたのだが、そのときはどうしても我慢ができず妻に気持ちを吐露した。長い話を聞き終えて妻はひとことだけ僕にこう言った。

「とりあえず言えるのは、悩んでいるなら楽しい方を選ぶことね。それが合っているか合ってないかなんてわからないけれど、少なくとも楽しんでいるあなたは恰好が良いとは思うから」

この一言のおかげで僕は今日もそこそこ楽しく仕事をすることができている。

先日この時の話を妻にしたところ、「あなたは悩むと外に飲みに行くから。それでお金が底をつきそうだったからそんな風に言ったわけ」とケラケラと笑って振り返っていた。

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理想の夫婦像などわからない。僕らには子どももいないから家族論など問われても答えようがない。

ひとつだけ言えるのは、親しき仲にも礼儀あり、そして笑いありだ。「ありがとう」さえ忘れずに、ネガティブをネタにさえできれば、たぶん、大抵のことはうまくいく、と思っている。

ちなみに冒頭の会話には少しだけ続きがある。

妻は僕の作ったナスの揚げ浸しを食べるや「天才か。食堂か」と褒めた後、「料理のスキルが上がっているから外食の必要性があまりなくなってきたなぁ」とこぼした。

来週からまたひとつ料理のレパートリーが増えそうである。

文・写真/Takapi