ここ1年、定期的にとあるベテランの料理家さんと仕事をしている。毎回お会いするたびに新しい発見があり、仕事が終わる頃にはノートはメモで真っ黒になっている。
「灰汁(あく)って、言葉の音からして悪いものだと思ってない?灰汁も出汁なの。だからやたらめったらとる必要なんてないの。あれは料亭など綺麗な色のつゆにすることが必要なときの工程なのよ」
こんな感じで、ふだん参考にしている料理本やインターネット上にある「こうすべきこと」をいかに盲目的に従ってやってきたかを知る機会でもある。そして先生はいつもなぜその工程があるのか、出来の悪い生徒にちゃんとわかるように、道理をていねいに教えてくれる。なるほど料理に「理(ことわり)」があるのはこのためか、などといつも感動している。
先生から教えてもらっていることは料理に留まらない。先生が僕に教えてくれるのは、ふだんの仕事や暮らしの中で、何も疑わずにやっていることに注意を払い、立ち止まり再考するための「心構え」のようなものなのだと思っている。
そんな先生が先日新しい料理本を出した。その出版記念のトークイベントが開催されるということなので参加してきた。
トークイベントの内容はここでは追わないが、そのトークイベントで先生の料理家としての出自を聞いた。聞けば彼女は、これまでいわゆる師と仰ぐ人につくことがなく、独学でここまで歩んでこられたとのことだった。
「だからね。私は誰よりも『失敗』している料理家と断言してもいいと思っています」と朗らかに話す笑顔がとても素敵だった。同時に「道理で」と思った。彼女の魅力は、積み上げてきた「失敗の数」と密接につながっているんだな、と。
後日彼女と仕事でお会いした。打ち合わせをする中でふと雑談になり、来年の目標の話になった。各々がポツポツ話す中、彼女は「私さ、来年世界一周しようかと思って」と高らかに宣言して、その場にいた全員を驚かせた。
「世界の食をもっともっと知りたいの。そして日本に持ち帰りたい。たぶん今の日本にとって大切なことが詰まっている気がするから」とベテランの先生が少女のように目をキラキラさせて話す姿を見て、「感銘を受ける」を通り越して神々しくすら感じた。
どれだけ積み上げてもなお、わからないことがあること。そもそもどんなに知っても「わからない」という前提に立つということ。その前提が新しいチャレンジを生むこと。チャレンジの繰り返しがワクワクして生きるということ。
先生の話を聞いていてフツフツと湧き上がるものがあった。それは勇気にも似た感情だった。同時にあったかいものに包まれるような安心もおぼえていた。
「なんだ、僕らにもまだまだ時間はあるじゃん」と。
「言葉はそんなに意味を持っていないんだよ」
わずかに残っていたハイボールを飲み干してから、彼は僕に向かってそう言った。
彼との付き合いはふるく、かれこれもう15年近くになる。新卒で入社した会社の同期で、同じ部署の営業としてともに切磋琢磨した仲だ。と言えば聞こえはいいが、慣れない社会人生活に息も絶え絶えになりながら、日々の愚痴を金曜日の夜にビールで流し合うような仲だった。
彼は一緒に働いていた頃から「ドライな性格」で、常にほどよい距離感があった。その距離感が不思議と心地よく、今でもこうしてたまに酒を飲み交わしている。
そんな彼と1年ぶりに酒をともにした。そのときに彼の口から出てきた言葉がそれだった。
久々に会った彼は営業部長をしていて部下を何人も抱えていた。話を聞けばそれなりに慕われているのがわかる。僕はと言えば、どうしても自身のやりたいことを優先してしまって、メンバーにそれを強いてしまう癖があることを伝えた。
言葉巧みに彼ら彼女らのやる気を引き出していることに負い目を感じながら、ひょっとしたら見当違いなことを押し付けていて、間違った方向に誘導してしまっているのではないか、そんな悩みとも愚痴ともつかない話を訥々としてしまった。
ひととおり話を聞いた彼はめんどくさそうに鼻の横をかき(彼の癖なのだ)、わずかに残るハイボールを飲み干して「ひとつ言いたいのはさ、言葉はそんなに意味は持っていないということだよ」と言った。そして「憶えてるか?新卒当時の部長」と聞いてきた。
「もちろん憶えている」と僕は言った。常に威圧的で、部下の失敗を許さず、平気で1時間も自席の横に立たせてネチネチと説教を垂れていた部長を忘れるわけがない。かつての部長の顔を思い出し「でも、仕事はおそろしくできる人だったな」と僕は付け加えた。
僕の言葉を受けて彼は、「うん。最悪な上司だった。でもさ、最近部長から言われたことを思い出すんだよ」と言った。続けて「その時はまったく理解できなかったんだけどさ、今になって理解できることが増えてきたんだよな」と言い、また鼻の横をかいた。
一瞬彼が何を言いたいのかが分からなかった。僕がぼんやりした顔をしていると、「やれやれ」といった表情で「言葉はね、いつどのタイミングで意味をもつかなんてわからないってことだよ」と言った。
僕のリアクションを待たずに、彼は「お前さ、自分の言葉で誰かが変わると思っていない?」と聞いた。ギクッとした僕を見透かすようにふっと笑い、「決心はその人の中からしか生まれないんだよ。だからお前にできることは、そのためのサジェスト(示唆)あって、アジテート(扇動)であってはいけないんだよ」と言った。
言葉で誰かを動かそうとすること自体が既に相手に期待をしてしまっていることだとも言った。期待をすれば、間を置かずにより強い言葉で「早く応えて」と、時に態度で、時に言葉で要求してしまうのだと。
その繰り返しがどんな結末を生むか、それはこれまでの僕の失敗を振り返れば痛いほどわかる。
ドライな友人は大事なことを教えてくれた。そのことを伝えると彼はまた鼻をかき「いや、だからそんなに深刻に考えるなって。さっきの部長の話みたいに時間がいずれ解決することもあるんだから」と笑った。
今日もSNS上には一見正しそうな言葉たちが並ぶ。脊髄反射のような「そうだ!」の合意の言葉や、空に拳を振り上げるような嫌悪の言葉をセットにして。
それは遠く離れた僕にも同じ熱量で声をかけてくる。「お前もそうだろう?」と。そして立ち止まり吟味する時間を許さずに、また新しい「正しさ」が流れ込んでくる。その繰り返しだ。
でもね。
正しさはずっと後になってわかることもある。
もしかしたらずっとわからないことだってある。
わからないことの方がワクワクすることだってある。
そんな「曖昧な正しさ」を自分の足元に置けたなら、僕はもう少し、積み上がっていく時間を信じてあげられるような気がする。
時間はまだまだあるのだから。
文・写真/Takapi