知るを道楽する

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「はい。教えてください」

画面越しでその人は笑顔で挙手をした。オンライン飲み会の最中、僕が話した内容に対して(なんの話をしていたかは忘れてしまった)、そこんとこもっと詳しく教えてくださいよといわんばかりに、その人(僕より5歳くらい年下)は勢いよく手を挙げた。真上に挙げられた手は画面から見切れていた。

なんだかその光景が懐かしくて、それでいて清々しくて、飲み会が終わりパソコンを閉じた後も頭の片隅に残っていた。

僕が最後に挙手をして教えを請いたのはいつだろう。思い返してみたが思い出せない。大学生の頃のゼミだったろうか。社会人になってからは(なかば強制的な)「学び」の機会はたくさんあっても、勢いよく挙手をして誰かに教えを請うことはほとんどなくなってしまったようにも思う。

「知っている」ことに対価が払われる仕事においては、当然ながら「知らない」は遅れを取ることを意味する。「教えて」の一言で相手との立場が逆転することだってあり得る。

長年のそんな環境が、無垢に挙手をして「教えて」と伝える機会を逸しているのかもしれない。その環境はいみじくも「同じことを知っている」人をつなげ、ますます「知りたい」の好奇心を遠ざける(ような気がする)。

さらに言えば、一旦「教えてもらう」環境を手放してしまうと、いざ教えてもらおうと思ってもそれ相応のエネルギーが必要になってくる。

新しいことを「知る」ということは、異物を消化器系に放り込んで咀嚼するようなことだ。その結果拒絶反応だってアレルギーだって起こす可能性のある行為でもある。さらには消化するための身体の「空きスペース」も必要だ。満腹の状態では当たり前だけどちゃんと消化できない。だから、教えてもらうことにはそれ相応のエネルギーが必要になるというわけだ。

パソコンを閉じて感じたのは、僕にはその熱量が低下しているということ。そして付け加えるのであれば「空きスペース」も少なくなっているという懸念だ。

そのことに少し落ち込んだ。それは僕の中で「知らないことを知りたい」という好奇心が薄れているということを突きつけられたような気がしたからだ。

と、なかば暗い気持ちになったところで「あっ」と思い当たることがあった。手を挙げて自ら教えを請うことは減っても、最近は自然発生的に「知らない」ことに出会う機会が増えていることに気付いたのだ。

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年内に引越しをすることになった。7年前に新築で買った今の家を売り、僕の年齢と同じ築年数の物件をリノベーションすることにした。

先月から、リノベーションを担当していただくことになった建築士さんと週に一度オンラインで打ち合わせをしているのだけど、これがとても楽しい。

その方の話がそもそも面白い(話し始めると止まらない)というのはあるにせよ、入ってくる情報がすべて僕にとって真新しい情報で、聞くたびにじんわりと体温が上がる。身体全体が新しい情報を受け入れることを喜んでいるのがわかる。

毎回2時間程度の会話の中で、家の基本的な構造の話から海外のインテリアデザイナーの話に至るまで、ありとあらゆる「住まい」の知識が洪水のように飛び込んでくる。

新しい言葉が出る度にスマホを取り出してはメモをして、打ち合わせの後で調べるようにしているのだが、それでも毎回真新しい情報が更新されて追いきれなくなってくる。そんなアップアップする状態も楽しい。住まいひとつとっても「知らない」ことは無尽蔵にあることを知った。

「教えて」を阻むハードルのひとつが「環境」であるならば、自分の立場を離れて別の世界に踏み込むことは、真新しい「知らない」に出会うチャンスでもある。

何歳になっても心躍る体験だ。僕は今(おそらく)平熱が少し上がっているはずだ。

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料理家の友人から「○○さん(僕の名前)が好きそう」ということで一冊の本を送ってくれた。ひとりで出版社を立ち上げたという方のエッセイ本で、読み進めてわかったのはその方が出版された本の中の一冊が、僕の家の本棚に飾ってあり、個人的にもとても好きな一冊であるということだった。

その偶然が嬉しかった。埋まっていたはずの「知っている」エリアににポンっと空きスペースができたような気分になった。

ともすれば、何かを「知る」ということは、ひとつの事象を言葉で捉えることではなく、自身の中で積み上げてきた「知っている」の隙間に「知らない」をはめ合わせていく工程のようなものなのかもしれない。それはまるで永遠に埋まることのないパズルのピースをはめていくような途方もない作業のようにも見える。

そう考えると、「知る」ということは「知らない」を増やすためのひとつの「道楽」のようなものであると捉えることもできる。

そして「知っている」と「知らない」をつなぐアシストをしてくれるような人たちは、その道楽を道楽たらしめる貴重な存在だ。

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今日も「知っている」ことを誇示する強い言葉が僕の眼前を横切っていく。

強い言葉は「餌」だ。答えを求める「知らない」を我慢できない(もしくは「知る」を強要された)人たちの目の前には、都合のいい「知っている」が美味しそうにぶら下がっている。

その先には釣竿をもった「知っている人」が待っている。食いついた人はその一時の美味しさに歓喜し、「知っている人」から次の餌が与えられるのを待っている。そんな人たちを従えて、声の強い人はより強さを纏った「知っている人」になろうとする。

その悪循環(そう悪循環だ)が今、各所で様々な弊害を生んでいるようにも見える。

ひとつ言えることがあれば、「知る」は果てのない所作の連続であり、ついでに言えば「知る」は自分の中にしか生まれないということだ。自身の中で築いた「知らない」の数の分だけ、その人だけの「知る」が生まれるものだから。

他人の中に自分の「知る」はないし、それを誰かに託してもいけないのだ。と僕は思う。

「教えて」の中にエネルギーがあり、「知らない」の中に道楽がある。

僕には、いや僕らには、両方必要だ。

文・写真:Takapi

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