言葉ひとつ

 

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仕事柄取材と称して人の話を聞くことが多い。
ひとつのことに人生を賭けている人、とある分野の専門家…そんないわゆる「プロ」の話を聞いていると「この人は言葉を持っているなぁ」と感嘆することがよくある。

言葉を持っている。

こうして字面にするとなんだかしっくりこない。声に出した「言葉を持っている」と比べるとどこか頼りない。もっと言えば間が抜けて軽い。

時として言葉は、声にして初めて質量を伴うようなことがあるらしい。

それはそれとして、僕にとって「言葉を持っている」人は必ずしも理路整然と語ることに長けた人のことを指すわけではない。現にスラスラと美辞麗句を並べる営業マンの話は眠くなるだけだし、勢いに任せた強い言葉に耳を塞ぎたくなるようなこともある。

僕が「言葉を持っている」人だと感じるのは、話を聞いていてゾワゾワと腕毛が逆立つような、身体の中で言葉がこだまするような、そういう声を持っている人のこと。

どんな相手でもそうなるわけではいし、一度そう思った人でも次に話を聞いたらまったく何も感じないこともある。それは多分に聞き手である僕自身の「その時」の心持ちに左右されてしまう。

どうやら言葉は受け取る相手がいて初めて「持つ」ことができるようだ(あくまで僕にとってのことだけど)。
そんな言葉に出会うときは決まって、相手の言葉が僕自身の身体の中を駆け巡り、身体の内側から新しい言葉を作り出させようとしてくる。言葉が外に出たがっていることがわかる。

たまにしか起きない。けれどそういう幸運に立ち会える喜びのことを、言葉が「響く」というのだと思う。

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先日職場で新しいプロジェクトが立ち上がった。それは僕がこれまでずっとやりたかったことで、意気揚々としてはじめての打ち合わせに向かった。

プロジェクトリーダーの話が一通り終わったあと、「君はどうしたらいいと思う?」と話を振られた。僕は積年の想いを晴らすように、ほとんど息継ぎもせずに10分ほど話し続けた。話し終えたとき、思わず「疲れました」とこぼしてしまうくらいには一生懸命想いを伝えた。

話を横で聞いていたプロジェクトリーダーは「うんうん。そうだよね」と喜んでくれた。打ち合わせが終わって1時間ほど経った頃、リーダーからメンバー宛にメールが届いた。

長いメールだった。それは勢いに任せて書かれたと言うよりも、もはや殴り書きに近いような文章だった。文体は途中で崩れていたし、誤字もあった。

それでも画面に映された電子の字面が熱を帯びているのがわかった。その熱を受けて、気付けば僕は自席で泣きそうにすらなっていた。

そのメールの最後には「先ほどの○○さん(僕の名前だ)の言葉で背中を押されました。これは成功できると思う」と締めくくられていた。

言葉が「響いた」瞬間だった。

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仕事で岩手県に行った。当日の移動は車。当日集まったメンバー5人のうち運転ができるのが僕だけということで2日間ドライバーを任されることになった。

この5人は所属もチームもバラバラで、まだ数回一緒に仕事をした程度の関係だ。5人乗りのレンタカーで少し窮屈さを感じながらのドライブとなった。

2日目の仕事が終わり、レンタカーを返すときになって5人の距離が近づいたような感覚があった。おそらく5人全員が同じような感情でいたと思う。レンタカーを返し終わった後の、まるで文化祭が終わった後のような表情を5人揃ってしていたことでそれはわかった。

ドライブ中は大した話はしていない。懐かしのポップソングをBGMにして、学生の頃の恥ずかしい話や、ただただ下らない話を繰り広げていた。それでもそこにはなんともいえない親密さが伴い、閉ざされた小さな空間の中で反響する声は、ふだんよりも寛いだ声に聞こえた。

大仰な言葉でなくても、強い想いでなくても、言葉は「通じる」ことがある。
通じた言葉はそのまま、気持ちまで通じさせるようなことだってある。

そして、それは面と向かって発せられる言葉だけとは限らないようだ。

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夏の終わり特有の、夕暮れ時に降る雨。

早めに仕事を切り上げた日、オフィスを出て駅に向かう道すがら、交差点で待つ人たちの多くが空を見上げていた。中にはスマホを取り出して空に向けている人もいた。つられて見上げればそこには虹がかかっていた。

思わず僕もスマホを取り出し空に向けた。
たったそれだけのことだ。それだけのことなのに、その瞬間僕は胸が高鳴るを感じていた。

それは運よく虹を拝められたからではなくて、その時、その場所で、いや、遠く離れた場所でも、同じように虹を見上げては、写真を撮っている人がいるということが嬉しくなったのだ。名前も知らない、年齢も違う、働いている環境だって、育った環境だって違う人が、同じ空に同じ想いを重ねているという事実に、ただただ感動したのだ。

想いは言葉だ。
その人たちと僕は、その瞬間たしかに同じ言葉で「通じて」いたのだ。

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僕らは言葉ひとつで通じ合うことができる。
言葉ひとつで人を勇気づけることもあれば、言葉ひとつで人を殺すことだってある。
そして、言葉がなんの役にも立たない時だってあることも知っている。

言葉ひとつ。
その重さと軽さを忘れないで暮らしていきたい。

文・写真:Takapi