差し出した手の行き先

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僕は一度だけ人の命を救ったことがある。

オールラウンドサークル(別称飲みサークル)で毎日のように飲み散らかし、毎週土曜日になれば京王線聖蹟桜ヶ丘駅近くの養老乃瀧(まだあるのだろうか)で100名規模の飲み会を催しては、泥酔一歩手前の体(もしくは一歩踏み込んだ体)で終電間近の電車に乗り帰宅するという大学生活を送っていた頃の話だ。

その日もサークルの飲み会を終え、いつも通り泥酔一歩手前で友人たちと駅のホームでワイワイと騒ぎながら電車を待っていた。

「間もなく、1番線に…」というアナウンスが頭上から流れ、反射的に電車が来るであろう方に目をやると、同じホームの10数メートル先に、泥酔を一歩どころか大股で越えたようなサラリーマンが千鳥足でフラフラと歩いていた。

「白線の内側にお下がりください」という言葉に抗うように、白線ギリギリを歩く姿を見て「落ちそうだな」と思った瞬間、そのサラリーマンは僕の視界からふっと消えた。つまり線路に落ちた。

「やばい」という声が出たときには僕はもう走り出していた。

落ちた場所まで駆けつけ、サラリーマンに声をかければしっかりと返答があった。意識はあるようだ。「早く捕まって!」と腕を差し出し、僕の手を握ったサラリーマンを思い切り引っ張り上げ、なんとかホームに引き上げた(今思い出すといったいどうやって引き上げたのか記憶があいまいだ。相当な腕力がなければ引き上げられないと思うのだけれど)。

引き上げた拍子にホームに尻もちをつく。ほっと安心したその数秒後、目の前が真っ白になるとほぼ同時に電車のヘッドライトが僕の眼前をかすめて通過していった。

一歩間違えれば僕も線路に落ちてしまう可能性だってあった。なぜ見ず知らずの人のために、死ぬかもしれない危険を冒してまで一目散に駆けて行けたのか。10年以上経った今でもあの時の自分の行動が理解できずにいる。

けれど今でもたまに何の前触れもなくその光景を思い出すことがある。そして思い出すときは決まって自分自身があたたかいものにくるまれるような感覚になる。

見ず知らずの誰かを救ったという自分の良心に酔いたいのか、滅多に起こることのない出来事に浮かれていたいのかはわからない。そうではないとも言えるし、どちらも正しいという気もする。

分かっているのはシンプルなことだけ。

自ら差し出した手は、誰かから差し出された手と同じくらい自分を温めてくれるということ。そして人はどちらも心の糧にして暮らしていく能力をもっているということ。

とまぁ、こんな大袈裟なエピソードを用意する必要もなく、きっと僕らは反射的にでも意識的にでも、日常の中で手を差し出しあって暮らしている。そんな小さな思いやりの交換によって日々の生活を少しずつ温めている。

それはたとえば家族の間でも。

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父親の話をしようと思う。

僕の父親は仕事が忙しいという理由でほとんど家にいなかった。帰ってくるのは決まって深夜か週末、僕が物心つく頃にはそれが当たり前だと思っていた。

だから子どもの頃の父親との記憶はそんなにある方ではないと思う。
父親らしいことをされたような記憶もあまりない。父親らしいことがどんなことなのかはわからないけれど、そのひとつとして息子に手を差し伸べることがあるのだとすれば、すぐに思い出せるエピソードが2つある。

ひとつめは幼稚園から小学校1年生くらいの頃。
僕は突然起こった成長痛のような脚のムズムズした痛みに悩まされていた。

「痛い。寝れない」と深夜にむずり出した僕に母親が手を焼く中、夜遅くに帰ってきた父親は何も言わずに夜通し(たぶん僕がそのまま眠りにつくまで)僕の脚を撫で続けてくれた。そのときどんな会話をしたかは思い出せない。今となっては煙草(キャスターマイルドを吸っていた)の匂いと撫でてくれた父親の指先の感覚だけがぼんやりと思い出せる程度だ。

撫でることが正しい処置ではないかもしれないけれど、撫でてもらっている間は痛みを忘れることができた。

大人になっていろんな痛みを抱えた人と会う機会が増えた。その度にこの記憶が僕の前に顔を出しては、慰めや励ましの言葉をうまくかけられなくても、ただそばにいるだけでその人の力になることがあるということを教えてくれる。

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もうひとつは陸上部でキャプテンを務めていた高校2年生の冬のこと。
僕らの代は歴代の中でも強い代だったらしく監督の期待が大きかった。そんな監督の粋なはからいで、全国トップクラスの高校の陸上部の合宿にうちの高校から選抜した数名だけ参加させてもらうことになった。

全国トップクラスのチームと一緒に練習ができる。本来であればワクワクすることなのだけれど、僕はそれ以上に怖気づいてしまっていた。というか完全に「行きたくない」と思っていた。あんなレベルについていけるわけがない、と思い込んでしまっていた。

合宿当日もそんな気分のままで、重たい荷物と足を引きずりながら朝早く家を出た。
地元の駅の改札をくぐる直前に携帯が鳴る。ディスプレイには父親の名前。「珍しいな」と思って電話に出た。

「今日から合宿だっけ?」
「うん。そうだよ。」
「そっか。うん。まぁ。頑張ってこい」

後にも先にも父親から「頑張れ」と言われたのはこの時だけだと思う。

不思議なのだけれど、たった一言、電話越しのそのたった一言を聞いただけで「やれる」と思えた。いや正確に言えば「やってやる」と決意が固まったのだ。それまでどれだけ周囲から激励の言葉をかけられても気持ちは重くなる一方だったのに、父親のその一言だけでお腹の奥の方にあった重たいものが軽くなってしまったのだ。

合宿中、吐きそうなくらい辛いタイミングはたくさんあったけれど、その度に父親の「頑張れ」が背中を押してくれた。マンガみたいだけど、本当に言葉が背中から聞こえたのだ。そして背中を押してくれたその声はそのまま、チームメンバー全員に向けた僕からの掛け声となり、結果としてチーム全体が前を向くための合言葉となった。

1週間の合宿を乗り越えたときにはメンバーの顔つきが変わっていた。確実にひとつステップアップしたという実感と自信が顔に満ちていた。

人を動かす言葉は時としてとてもシンプルで、そして言葉は時として自分を通過してそのまま誰かへバトンパスされるようなことがある。

この考えは僕が誰かと接するときにいつも通奏低音として流れている。僕は言葉を信じているし、それ以上に侮らないようにしたいと思っている。
そのきっかけはこの電話にあったように思う。

余談だが、合宿の半年後、都大会決勝で走ったリレーは、卒業して15年以上経った今でも母校の歴代最高記録として残っている。

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2018年4月、僕の父は他界した。

病床で父と最後に交わした会話は、僕が先日行った一人旅のことだった。

「尾道の日の出最高だったよ」と眼前に差し出したスマートフォンの写真を見て、左手を少し上げて親指を立てた。それが僕に残した彼の最後の“言葉”だった。その手を握り「来週も来るよ」と声をかけたのが僕からの最後の言葉だった。

その2日後に、父は他界した。

彼が死に際にどんな想いでいたのかは分からない。
願わくは彼が生前、幾度か僕に差し出してくれた手を思い出していてくれたらならいい。

文・写真:Takapi