想像力さん

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これだけ人と会わない日が続くのは生まれてはじめてのことかもしれない。ここ1か月はほとんど妻とにぼし(飼い猫)としか対面していない。

それでも日々情報は大量に流れ込んでくる。様々な立場から様々な人が発する感情を伴った声は、生々しい質感を伴ってまるで油膜のように僕の身体にまとわりついては思考する隙間を埋めていく。

これまでは、通勤のために電車に乗ったり、飲み会のためにお店に行ったり、その時々でいろんな人を眺めたり話したりすることで思考する隙間が与えられていたように思う。そんな風にしてなんとなく五感全体で把握していた「空気感」みたいなものがシャットアウトされているからか、いざ目から入ってくる情報を通じて何か思うことがあっても、ピント外れなことを思っているかもしれない、ひょっとしたら誰かを傷つけ損なうかもしれない、と自信がなくなって言葉が出てこない。しまいには「今何ができるか」を考えることさえ及び腰になってしまう。

つくづく思考は呼吸のようなものだと思わされる。息苦しさの中で思考は正常に機能しないのだ。

今僕たちは「人の気持ちになって考えましょう」という、小学校の道徳の時間で掲げられたお題を「実技」として突き付けられている。しかしながら、生々しい感情の濁流を目の前にしては、僕の想像力はあっさりと白旗を挙げざるを得ない。ましてや想像だけで何かを判断すること自体が人を軽んじてる気にすらなってしまう。「想像せよ」という言葉そのものがなんて想像力のない言葉なんだと痛感する。

出だしからとても暗いトーンになってしまった。

僕自身も少し疲れているのかもしれない。毎日のように誰かが誰かを詰り、ここぞとばかりに「正義」を振りかざしている様子を目の当たりにしていると、感情は乗り移らずとも都度手に汗をかくような、心拍がクッと上がるような感覚になる。そういうアップダウンに息切れしているのだと思う。

誰かがインターネット上に放り投げた言葉は、たとえ僕に向けられてなくても、距離を無視して直接胸に飛び込んでくることがあるようだ。

僕には今、隙間が必要だ。

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そんなことだから、先月くらいから日記をつけるようになった。日々感じたことをなるべく解釈を加えず、うまく言おうとせず、誰に向けるでもなく書き記しておくことが今の僕には必要な気がしたのだ。

日記を始めて1ヶ月くらい経つけれど、1日の中で自分の気持ちを反芻し書き記す行為は、リフレッシュするのか今のところ心地が良い。毎朝同じ時間に通勤することで仕事のスイッチを入れていたように、1日数分の書き記す行為が、漫然と同じ景色の中で過ごすだけの時間を切り替えるスイッチになっている。

書き始めてからひとつ気付いたことは、ほとんど家にいるにも関わらず、書くことは案外あるということだ。仕事でやりとりした人との何気ない会話の中から、散歩中に目にした木々の変化の中から気付くことはあって、そういうところから感情をすくいあげる行為は、身体のストレッチのように「ほぐす」役割をしてくれている。

思えば僕たちは、ふだんの暮らしの中で意図せずとも常に何かを想像しては判断を繰り返していた。ランチのお店を探す時も、上司に声をかけるタイミングを模索する時も、満員電車の中でせめぎ合う位置どりも、すべてその刹那、自分や誰かの数秒後を想像しながら判断をしている。

こうした事態になって、ふだん使いまくっていた「想像力さん」も手持ち無沙汰になっているのだろう。その余ったエネルギーを手元にあるものに集中投下しているのではないか、そんな気がする。だから先述したようにメディアから流れてくる言葉にもいつも以上に痛みを感じてしまうのだと思う。

「想像力さん」を自分に向ければほぐすことができる。
ほぐれれば呼吸はうまくできる。

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仕事に関していえば、幸い今のところ仕事を進めるという点だけで見ればそこまで大きな影響は出ていない。

とは言え対面で話す時に感じる「相手の気持ちが漏れ出る空気感」みたいなものはどうしても汲み取ることができない。だから特に初対面の人や関係性が薄い人とコミュニケーションをする時には余計に気を遣うようになった。これがとても疲れる。仕事を終えたときにはグッタリとしてしまう。

反面、毎日会社でデスクを並べ仕事をしていたメンバーと定期的に行うオンラインの会話に親近感を感じるようにもなった。

「知っている仲」とイヤホンを通じて耳だけで接続される距離感は、会社で対面する距離感よりも不思議といっそう近く感じる。それが少しくすぐったくて嬉しくもある。たとえるならば、学生の頃友人たちが待つ教室に飛び込んでいくような感覚とでも言うのだろうか。

物理的な距離が生まれることで精神的に距離が縮まることもあるようだ。

そうは言っても、打ち合わせの最後はいつも「早く飲みに行きたいね」で締めるのだが。

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大学の友人から「話そう」と誘いが入り、急遽LINEをつないで4人で顔を合わせた。4人はそれぞれ全く異なる仕事についていて、今回の件で経済的にもろに打撃を受けている友人もいれば、小さなお子さんを抱えて在宅勤務が大変だという友人もいた。ひとつだけ共通することがあるとすれば、皆一様に疲れがにじんだ表情をしていたということだ(僕が一番気楽に見えた)。

立場が違うから、おいそれと「こうあるべきだ」「こうでなきゃダメだ」なんて不安や不満は出てこない。そういった感情を抱えているのは当然ながらわかっているし、慰め合うような仲でもない。だから会話は淡々と近況を述べるに留まった。そんな気遣いとも強がりとも取れるような友人の話を聞きながら、そんな友人を持てたことがなんだか嬉しかった。

話の中で「みんな大変だなぁ」という当たり障りのない僕の発言を受けて、友人は「みんな何かしら抱えてる。だからさ、こんな時期に一番大切なのは想像力だと思うんだ」と言った。そして少し間を開けて「それだけは忘れちゃいけないんだよ。だってそれは誰かを想うことでもあるから」と続けた。

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人と距離ができたことで、その距離を想像で埋めることが増えた。でもそれは時に乱暴な妄想であったり、時に自分の都合のいい解釈に陥ってしまうことがある。想像力を養うつもりが、アンテナを張り間違えれば怒りや苛立ちを増幅するだけになる。そしてそれは凶器にだってなりうるのだ。

望むと望まざるに関わらず、僕らは想像することをやめることはできない。そうであれば少しでも優しい想像力を養いたい。

それはもしかしたら今は会えない近い他人を想うことなのかもしれない。自分自身と向き合うことなのかもしれない。

答えはわからないけれど、僕はこれからも「想像力さん」とちゃんと手を繋いでいきたい。

文・写真:Takapi