今年の梅雨は長かった。晴れ間が顔を出さない日々は体調にも陰を落とすのか、あちこちから不調の声が上がっていたように思う。僕も僕でなんとなくフワフワしていた。
7月末にようやく梅雨が明けたと思ったら、連日35度を超える猛暑が続いている。朝から30度を超える気温の中最寄り駅まで歩き、そこから満員電車で小一時間圧迫されるのは、思っている以上にこたえる。ここ数日は会社に着く頃には疲れきっている。
あれだけ晴れを待ち望んでいたのに、晴れを喜んだのは2日くらいで、その後はもうそろそろ雨降ってくれないかなと願っていたりする。薄情なものだ。
でも気持ちなんて案外そんなものなのかもしれない。あちらを立てればこちらが立たず、僕らはいつも「ないものねだりのシーソーゲーム」をして暮らしていて、そんな危ういバランスの上で時に昇ったり時に落っこちたりしてどうにか帳尻を合わせているのかもしれない。
だから気の塞ぐことがあれば、台風が通り過ぎるのを待つようにじっとしていればいいし、浸るほどの喜びに出会えたなら、一時の晴れ間と思ってありがたいと感じ入ればいい。
ひとつ言えることは、良いことも悪いこともそんなに「長続きはしない」ということだ。
なんてことはない、ただの一般論だ。
僕はといえば、6月7月は忙しさも相まって、感情の起伏に翻弄された日々を過ごしていた。気分だけは季節を先取りして「夏バテ気味」の状態だった。
その反動なのか延長線上なのかはわからないが、ここ数週間を振り返ると微笑ましい出来事が手元に残っている。
並べてみると些細なことに見える。でもそれらはどれも3㎜くらい気持ちが上向くような出来事だった。
「3㎜くらい上向く気持ち」とは、たとえるなら木陰に入った瞬間にスーッと涼しい風が吹き抜けたときの、ホッと胸をなでおろすような、目尻が下がるような、忙しければ素通りしてしまうくらいの気持ちの変化だ。
木陰をたとえに持ち出したのは、今僕が空調の効き過ぎたカフェで氷の溶け始めた薄いアイスティーを飲みながら原稿に向き合っているからだ。要は単純に木陰が恋しいのだ(冷房がキツすぎてクシャミが止まらない)。
そして僕の後ろの席からは、夏バテのせいか新聞を膝の上に拡げたままうたた寝を始めたおじさんのいびきが聞こえてくる。
蛇足だ。本題に戻る。
夏も本番を迎えると、胃腸が求めるご飯はふたつに分かれる。麻婆豆腐のような力強い味か、慈愛に満ちたやさしい味だ。少なくともそれ以外の選択肢を僕は知らない。
その日の昼時はたまたま後者を選んだ。職場から徒歩5分程度にある、和食がメインの定食屋さんだった。
15種類くらい定食の中から今の僕が一番求めたのは「ナスの煮びたし」だった。
10分ほど待っていると、1/3ほどつゆで埋まった丸いおおぶりのボウルの真ん中にテカテカとしたナスがどんと置かれた、それは見事な「ナスの煮びたし」が運ばれてきた。
「うまそうだなぁ…」思わずそうこぼした僕の声を受けて、料理を運んできた店主は「ふふ。これは今出してるメニューの中でも特にオススメだから。ま。食べてみて」とプリプリの満面の笑みで言い放ってさっと厨房に帰っていった。
その言葉通り本当に美味しかった。そして、ちゃんと時間をかけて作っていることがわかる料理だった。そうゆうのは不思議とわかるのだ。夏バテ気味で猫背になっていた背中がスッと伸びるような味だった。
「いやぁ、ほんとに美味しかったです」会計時にそう伝えると、「でしょう?もーーう、手間がかかってますから」と育て上げた弟子を世に送り出す師匠のような面持ちで料理のコツを丁寧に教えてくれた。
店を出てからオフィスに戻る足取りは軽く、視界が3㎜くらい上がったような気分だった。
いつも仲良くしてもらっている友人に仕事で用があり、金曜の夕方に彼のオフィスにお邪魔することになった。
話は30分程度で終わり、時間も半端だから一杯だけ飲もうかという話になり、日が暮れる間際に近くのバルに入った。
ハッピーアワーということもありガヤガヤとした店内だった。カウンターに男がふたり腰かけ、ビールとハイボールを1杯ずつ頼んだ。
飲み会のような間延びした時間を過ごすわけではないから、少しだけ早口で互いの仕事の状況を伝え合う。そこから矢継ぎ早に賛同と意見を繰り返した。軽いトレーニングのような応酬になった。
アーモンドをつまみながらお互いに2杯ずつ飲んだ。2杯目が空にになり、会話がひと段落ついたタイミングで「そろそろ行きましょうか」と切り上げることになった。時計を見れば30分程度しか経っていなかった。
店を出ると「頑張っていきましょう。では!」とアッサリと手を振って別れた。
駅に向かい歩きだして50Mくらい経った頃、早歩きになっていることに気付いた。「これから」に立ち向かうべく3㎜くらい前のめりで歩いているような感覚だった。我に返り周りを見渡せば、とっぷりと日は落ち、街は夜の喧騒に包まれていた。
朝オフィスに行くと、机の上に5cm四方の紙とクッキーが置いてあった。紙を見れば隣で働く後輩の置き手紙があった。
そこには、とあるミーティングでもらったお土産のクッキーをおすそ分けします、と癖のある丸文字で書かれていた。
紙の半分を使って絵も描かれていた。犬なのか熊なのか見分けがつかず3秒ほど逡巡したが、それを眺めていたらふっと頬が緩み、呼応するように身体全体の力が緩んだ。肩が3㎜くらい落ちるような感覚だった。
思えば手書きの文も手描きの絵もしばらくもらっていなかった。これだけメールやSNSでその人が「発した」言葉を受け取っていても、実感として人柄を感じるのはこんなちょっとした手書きだということに少しおかしみを感じた。
その紙をひとしきり眺めた後、打ち合わせで使うプリントが入ったファイルにそっとしまった。ゲン担ぎのような気持ちだったのかもしれない。でもなんとなく、その日は気持ちよく仕事ができたような気がした。
今年の長梅雨とその後の酷暑。人は「大きな変動」に弱い。少なくとも僕は、弱い。
それでも日常の中にはいつでも3㎜くらい心が動くような出来事が溢れている。そしてそれはちょっした心持ち次第で、良い方に傾けてくれることもあるらしい。
3㎜くらいの、いいこと。
少しずつ積み上げていきたい。そんな小さな出来事に気付ける人でいたい。
文・写真:Takapi