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2020/07/21

夏季休暇のお知らせ

8月3日(水)〜7日(金)は
夏期休暇とさせて頂きます。

宜しくお願いいたします。

2020/07/10

かっこいい人

CD1986F7-D204-4034-8A1A-423710C95950なんだかんだ「かっこいい人」に憧れ続けた人生だった。

幼稚園の頃は地球を守るヒーローに、中学生の頃はどんな女性も落とせそうな男前の俳優に、高校生の頃は世界で活躍するスポーツ選手や日本一売れている歌手に、大学生の頃は僕よりお酒が強くてモテるサークルの先輩に、社会人になってからはSNSで称賛される経営者に。

こんな風に「かっこいい」にも変遷はあって、その度に僕の世界は拡がったり縮まったりを繰り返してきた。ついでに言えば「かっこいい」は妬みや羨ましさと表裏の関係であり、コンプレックスの顕れでもある。だから「かっこいい」の変遷はコンプレックスの変遷でもあるわけだ。

社会人になり自分の「身の丈」がわかってくると、だんだんと「かっこいい」から目を逸らすことを覚えるようになっていく。それはつまり自分が羨ましくも目指したいと思っている「立ち位置」を放棄することでもある。そんな姿に対して「丸くなってしまった」とため息混じりに詰られることもあるし、「大人になったね」と背中をさすられることもある。

なんとも寂しい話だ。

なぜ今、改まってこんな話をしているのか。それは先日、敬愛するとあるアパレルのショップオーナーに飲みがてら人生相談をした折に言われた一言にある。

「君はかっこよくなりたいの?それともただかっこいいって言われたいだけなの?」

その言葉を受けてしばらく考え込んでしまった。それはショップオーナーが揶揄した後者側に僕が立っているということではなく(それもあるのだけれど)、「かっこいい」から目を逸らした「大人」になってしまったことを見透かされてるような気がしたからだ。

こんなことがあったから改めてじっくり頭の中で「かっこいい」と思える人を探してみることにした。それは今の自分のコンプレックスを覗くことでもある。おそらく痛みを伴う作業だ。それでも人生のあるタイミングでは必要な儀式なのだと思う。たぶん。

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定例の人事で僕は4月に部署異動をした。新しい部門の部長は見た目の年齢で言えば60歳手前くらい。はじめてお会いした時は「好好爺」という言葉が浮かぶほど朗らかな人柄に見えた。

コロナの影響でここ3ヶ月出社していないが、当たり前だけど仕事のメールは日々流れてくる。おおよそ50人強いる組織の面々から次々と報告メールや相談メールが飛んでくる。

正直現場の僕でさえ全部は見切れていない。そんな中部長はどのメールにも必ず返信をする。茶目っ気のある(少し古い)冗談を織り交ぜてメールの送り主を労う。

ひとりも置いていかずに組織を守らんとする覚悟のようなものがその所作から滲み出ている。

圧倒的なエネルギーでショベルカーのように仕事を進める人もいる。そんな人を羨んだ時期もあったのだけど、今は「好好爺」のように温かくもポジティブな空気を与えられる人に魅力を感じる。

かっこいい。

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大学卒業後、30年以上お酒造り一本でキャリアを積み上げてきた人に取材させてもらう機会があった。

僕が聞きたいと思っていたのは、これだけ長い時間、ひとつのことを極めるために自身を突き動かしているものは何なのだろうということだった。

しかし話を聞いてみるととても淡々としている。酒造りとは日々出会う小さな気付きをひとつずつ積み上げていくだけ。そんなことをポツポツと話す静かな佇まいを見て「突き動かす」という言葉は相応しくないと思えてきた。

「職人」と呼ばれる人は、何かに突き動かされて成り上がった結果の姿ではなく、自身の道を受け入れて、静かに向き合い続ける過程そのものなんだと気付かされた。

かっこいい。

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話を先日のショップオーナーとの飲み会に引き戻す。

二次会はオーナーが週4で通っているカウンターのみのバーへ連れていってもらった。「こんばんは」と入れば顔馴染みがすでにいてすぐに談笑が始まる。ものの数分で店内は一気に賑やかになった。

そこには東京で数店舗の居酒屋を経営する方や、最近近くにセレクトショップをオープンしたというお洒落なお兄さんなどもいてバラエティ豊かな面々が揃っていた。

違う畑の仕事をしている方々なのに、一同に会しているとまるで大学生のサークルのようにワイワイと話が尽きない。僕は話をただ聞くのが精一杯で、それでもふだん住んでいる場所とは違う世界に潜り込んだみたいで楽しかった。

帰り道、ひとり電車を待っているときに、ふと「羨ましい」ような「悔しい」ような、なんともいえない気持ちが沸き起こってきた。

今ならわかる。彼らはかっこよかったのだ。

先に上げた方々と二次会で出会った方々。彼らに共通するのは自身の「持ち場」をわかっているということだ。

そして静かな熱量に満ちた彼らの持ち場は「磁力」を伴って人を引き寄せる。さっきまでいたバーは、まさにそんな磁力の溜まり場だった。

僕はその「磁力」が羨ましくて悔しいのだ。足りないと思っているのだ。かっこいいと思うのだ。

それがわかると今度は清々しい気持ちになった。なんだ、まだやれることがたくさんあるではないか、と。

「かっこいい」は原動力だ。これからもたくさん羨んで妬んで、僕は自身の小さい世界を拡げていきたい。不格好を厭わずに。

文・写真:Takapi

2020/06/10

猫について

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僕は猫を飼っている。

猫の名前は「にぼし」といい、家に来たのは今年の2月末。なぜ猫を飼うことにしたのか、なぜ名前が「にぼし」なのか、そのあたりの記憶はとんと抜けている。なかば衝動的に「飼わなきゃ」と気持ちが高まり、それから1週間後くらいには家に来ていたような気がする。

猫を飼い始めた途端に新型ウイルスの影響で出社ができなくなり、かれこれ3ヶ月ほど昼夜を問わず一緒にいる格好になっている。そういった意味ではとてもいいタイミングというか、自分でも「持っているな」と思う。ひとつ懸念があるとすれば、これから毎日出社することになり半日以上猫に会えない暮らしになったとして、果たして僕はその暮らしに耐えられるだろうか、ということくらいだ。

今もこのコラムをリビングで打っている傍で、猫はソファで横になりながら一心不乱に毛繕いをしている。たまに目をやるとこちらの視線に気付きチラッと見上げてくる。そして数秒すればまた毛繕いに戻っていく。その所作すべてがかわいい。おそろしくかわいい。そんなことだから、もしこのコラムに誤字・脱字があっても、それは猫のせいなのでどうか許してほしい。ついでに今回は写真が多くなることも許してほしい。

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家に来たときは生後4ヶ月程度の体重2キロ弱の子猫だった。家に来た日はゲージから出すとすぐにリビングの棚の下の隙間に隠れたきり出てきてくれなかった。心配だよね、大丈夫かな、などとやたらに慌てふためながら棚の下に声をかけている僕に、妻はあっけらかんと「猫用のおもちゃで誘ってみたら?」と言った。妻は実家で猫を飼っている。

その妻の言葉のどこが琴線に触れたのかはわからない。なぜか反射的に僕は「そんな簡単な子じゃないよ」と彼女(猫は雌だ)の繊細さをアピールし始めていた。その後の数分の演説も甲斐なく「はいはい」と財布を渡され、しぶしぶ近所のドンキホーテに行き紐付きのねずみのおもちゃを買ってくることになった。

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「こんなもので出てくるわけないよね。軽く見てごめんね」と思いながらネズミのおもちゃを袋から取り出すやいなや、猫は勢いよく棚の下から飛び出しねずみを奪い取り戯れ始めた。そのあまりの豹変ぶりに拍子抜けしたものの、はちゃめちゃに飛び回る元気いっぱいの猫を見てとりあえず胸を撫で下ろした。

人は知らず知らずのうちに、相手を斟酌したつもりの身勝手な「思いやり」をかけてしまうことがある。「彼(彼女)はこう思っているはずだ」の思い込みが対話を断絶させ、余計に関係がこじれてしまうことだってある。

身勝手な思いやりを捨て、対話を試みてみること、そしてその方法に歴史や専門家の声(時にインターネット)を頼ることは、結果はどうあれ「ひとつ前に進める」には大事なのではないか、そんな基本的な社会人としての姿勢を猫は教えてくれた(大袈裟すぎる気付きかもしれない)。

それからというもの、我が家の猫は丸めた紙屑やゴルフボール、段ボールやお菓子を包装したビニール袋(なぜかこれが一番興奮するらしく、ビニール袋のすれた音がするだけで駆け寄ってくる)など、数々の遊び道具を開発してきた。そんなところからも発想の自由さと今を楽しむたくましさを学ばせてもらっている。そして僕は僕で猫と遊ぶ時間が日に日に伸びてきている(仕事の休憩時間が伸びてきている)。

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飼い始めの頃は、寝ている間に何をするのか不安でもあったので、寝る時間になると普段使っていない部屋に誘い込み(それこそ「ねずみ」を使って)、おびき寄せたら急いで扉を閉めて閉じ込めていた。飼い始めて1ヶ月半くらいはそうしていたように思う。

しかし、だんだんと閉じ込められるのがわかってきたのか、2ヶ月と経たないくらいの頃から、寝る時間になり「おびき寄せの儀式」が始まるとドアの前に座り込みを始めるようになった。

そんなことをされるとだんだんと可哀想になってきて、妻に相談を持ちかければ「私はそもそも部屋に閉じ込めなくても大丈夫派なんだけど」とまたしてもあっけらかんと言われ(そんなことに派閥があるとは思えないのだが)、若干の不安を残しつつドアを開放することにした。

翌朝以降、明け方5時過ぎくらいになると耳元で「ゴロゴロ」と喉を鳴らしては起こしにきてくれるようになってしまった。それでもぐずっていると「ニャー」とくる。これは堪らない。しぶしぶ日が昇る時間から起きることになった(妻は静かに寝息を立てている)。

しかしながら、それからというもの睡眠不足でくたびれた僕の表情と裏腹に、猫の顔がどんどん柔和になっていった。やはりずっとひとりで寝るのは寂しかったんだな、とちょっと鼻の奥がくすぐったくなるような感傷に浸った。

ついつい猫の写真も多くなる。妻に見せれば「変わらないじゃない?」の一言。そんなことはないと写真を並べてみると、たしかに以前となんら変わらない猫の顔がある。ひょっとしたら柔和に見せていたのは、これまで閉じ込めていた後ろめたさから解放された自分の心持ちの方だったのかもしれない。

またひとつ猫から学びを得ることになった。

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ここ1ヶ月くらいは在宅勤務は続いてるものの、仕事も以前の活気を取り戻しつつある。資料作成に夢中になったり、オンラインでの会議が増えてくると、だんだんと猫と一緒にいる時間が剥がされていく。

心なしか猫の鳴き声が大きくなり、鳴く頻度も上がってきた。猫のガイドブックによれば、この鳴き声は「遊んで」のサインとのことなので、パソコン作業の時間の合間をぬって「ねずみ」やその他玩具を引っ張り出しては遊ぶようにしていた。

それでも遊びながら常に頭に仕事のことが過ぎる。だからついついおざなりになってしまう。そんな僕の気持ちを見抜き、怒ったように鳴き声はますます大きくなった。不満をそのまま吐き出すようなその声にだんだんと僕自身も苛立つようになってしまった。

どうしたものかと悩み妻に相談すれば「あぁ、これは発情期だから」とあっさり答えを用意していた。よく見れば猫の挙動が少し普段と違う。インターネットで調べればまさに発情期そのものの挙動だった。なるほど。生理的なことであれば仕方ない。そう思ったら鳴き声が全然気にならなくなった。

妻の「大体1週間程度よ」の予言通り、数日後にはピタッと鳴き声が止み、挙動もいつも通りになった。

ここにも人間関係に代替できる学びがあった。

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当たり前だが猫は言葉の通じない生き物だ。予想のできない仕草を目の当たりにする度にあたふたする毎日を過ごしている。それでも、こんな風に猫が送るシグナルは小さな発見に満ちている。

最近は暑くなってきたら窓を開けて過ごしているが、そうすると猫は飽きることなくずっと外を網戸越しに眺めている。猫は猫で、新しい世界に日々学びワクワクしているのかもしれない。カーテンからはみ出した尻尾が小刻みに揺れていることがそれを表している(違うかもしれない)。

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なにはともあれ猫と暮らすようになってよかった。

今日も彼女は僕を見上げてくる。何かを試すように、注文するように、甘えるように。僕はその度に、彼女を満足させるものは何か、過去のパターンや参考書(やネット)を駆使して回答を示す。そして彼女のリアクションにいちいち一喜一憂しながら暮らしている。

僕は猫に飼われている。

文・写真:Takapi