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2021/10/13

EYEVAN7285 Fair

今日、10月13日でLOCALは開店し8年を迎えられました。

月末には姉妹店PLACEも開店します。

お客様には日頃からのご愛顧心から感謝し、御礼申し上げます。

 さて、コロナの影響も先が見えつつある、今日この頃、感染対策を行いつつフェアの開催を決めました。

「 EYEVAN7285 」https://eyevan7285.com

現代の工芸品と紹介されている通り

「眼鏡」という枠の中

約400工程もの作業を経て丁寧に時間をかけて作り上げ

今、本当に美しいと思える物をかたちにしています。

ご来店される方が混み具合で

不安にならないよう会期も長く開催します。

ご来店心よりお待ちしております。

「 EYEVAN7285 Fair 」

10/16(金)ー11/21(日) 11:00-19:00

2021/10/10

得意

「おふたりの家事分担を教えてください」
この質問にしばらく黙り込んでしまった。

とある雑誌の取材だった。その雑誌では、リモートワークが当たり前になり家にいることが増えた今、家事の効率化や家族の協力関係などを特集しているとのことで、かくかくしかじかいろんな伝手を経て、ついにうちに白羽の矢が立ったというわけだ。

取材前にいくつかの質問は投げてもらっていた。「家事の負担を楽にするための家電やツール」「家事をこなすための時短テクニック」など、質問を並べてみると「基本的に生活は辛い」という前提に立っているようで、「そんなに暮らすことは大変なのか」とまるで他人事のような感想を抱いていた。

その質問票の中に冒頭の質問もあった。答えを考えようとはしていたものの、なかなかうまい答えが見つからないでいた(妻に聞いても「たしかに難しい質問だ」とサラッと答えられただけだった)。

端的に言えば「やれる方がやれることをやる」が基本方針(と言えるほど決まった枠組みでもないけれど)の我が家では、「分担」という言葉で括れるほどキッチリと分けられることがないのだ。

リモートワークになる前から、早く帰ってきた方が夕飯を作ることになっていたし(ともに遅いときは惣菜に頼ったり)、夕飯を作ってもらった方は後片付けと食器洗いを行う、といったように、夫婦で明確に「分担作業」として線を引くより、互いの様子を見ながらやりくりする方が肌に合っていた。

そうは言っても、互いの体質というか、性質で切り分けられている家事もある。朝が弱い妻の代わりに朝食は僕が担当していたり、整理整頓が苦手な僕の代わりに家財一切の置き場所は妻が決めていたり…でもそれは「決め事」というよりは、一緒に暮らして気づいた互いの得意分野(もしくは不得意分野)を見ながら、フィットする方に役割を委ねるような、そんなゆるやかなものだ。これまでの夫婦生活の約10年間、一応なんら不自由なくこれで暮らしてきた(あくまで僕としては、だけど)。

だから四角四面に「役割分担」と問われると困ってしまう。そういうのは決めることではなくて、ふだんの会話や仕草を見て「わかってくる」ものであると思っている節があるからだ。

でも改めて家でやっている家事を振り返ると、そんな風にして「わかって」やっていることは不思議と苦にならないことに気付く。ならないばかりか、少しずつ向上のための工夫を積み重ねているようにも思う。10年前と今の「朝食のオムレツ」を並べたら、圧倒的に今のオムレツに軍配が上がるだろう。そういうものだ。

まぁ、こんなことを言っているけれど、うちのやり方が正しいとはまったく思わない。家族には家族の考え方がある。それはそれとして、誰かと長い期間共同生活をすることで「向いていること」がわかるというのはひとつの(そこそこ大きな)発見であるということはたしかだ。

ひょんなことからとある地域のプロジェクトに関わることになった。プロジェクトと言えば大袈裟だけど、要は地域の特産品を活かした「モノづくり」を、地域の人と外の人を巻き込んでやっていこうというもの。

その地に足を運んだことすらない僕に声をかけてくれた理由を尋ねれば「文章を書ける人だから」ということだ。プロジェクトの様子をレポートしてほしいとのことだった。

先日そのプロジェクトチーム(5人)のオンラインミーティングがあり、メンバーの自己紹介をすることになった。話すときの決め事は3つで、今やっていることと得意なことと苦手なことを話すように、という指示だった。

周りの人が颯爽と手を挙げて話し始めた。大学生からイラストレーターまで、年齢も経歴もバラバラな人の話を聞くのは面白い。そしてみんな活き活きとしている。すごい。ニコニコしながら(できていたはずだ)聞いていたら、僕の得意なことってなんだっけ?と悩み始めてしまった。「はじめまして」の人に話すのはなおさら難しい。自身のやっていることが「いかに狭い世界」で完結していたかを思い知らされる格好になった。結果として声をかけてもらった理由である「文章がそこそこ書ける」というなんとも締まりのない得意なことを話すことになった。

その後は、プロジェクトリーダーからこのプロジェクトの概要や狙いが改めて説明された。ひととおり説明が終わり、気になったことやわからなかったことなど、なんでもいいから意見を聞かせてほしいと言われた。

僕からは、説明の中では言及されなかったけれど、聞いてなんとなく感じたプロジェクトの魅力を「こういうこと?」と解釈を伝えた上で、「だとしたらこんな可能性があるのではないか?」といったようなことを話した。

大きく頷きながら聞いていたプロジェクトリーダーは、僕の話を聞き終えると、少しの間を置いて「まさにそれが考えていたことで、でもずっと言語化できなかったことだ…!」ととても喜んでくれた。その返事を聞いて、そういえば、と思った。これまで僕が仕事でやってきたのはこういうことだったのかもしれないな、と。もしかしたらこれが僕の「得意なこと」なのかもしれない、と。

広告代理店の営業の頃も、クライアントのところに足を運んで話を聞き続けては「つまり今一番のお悩みはこういうことですか?」を繰り返してきた。今やっている仕事も、社員の話を聞いては「こんなやり方もあるかも」と伝えることで、彼ら彼女らの次の一歩をアシストをすることが役割になっているような節はある。

意識的にせよ無意識的にせよ、自身の得意とすることはきっとひとつやふたつはあって、時に思いもよらないところで見出されることがある。ふだんの暮らしのやりとりの中にも、淡々と続けている仕事の中にも、ちょっとしたきっかけで、「得意」はこちらの都合に関係なく現れてくる。

ついついかっこいいスキルとか、天才的なアイデアとか、そんな「得意」が身につかないかと思ってしまうけれど(ちょっと今でも思っていたりする)、なかなかそうはいかないもので、さらには、仮に自分の中で「これは得意なことだ」と見つけられたとしても、それを発揮できる場所や役割が与えられるかと言えば、そこは運に委ねられたりする。

それでも、誰かとのやりとりの中で見出される「得意」は、実際的というか、無理がないというか、大袈裟なことはなくても誰かの役に立っている実感を与えてくれる。そんな得意を見出せたなら、なるべく背伸びをせず、ないものねだりをせずに、手元に見出された「得意」を温めていくようにしたい。

そして今朝も妻は「このオムレツ最高だわ」とつぶやきながら嬉しそうに食べている。

文・写真:Takapi

2021/09/10

感動

いつものジムで軽く汗を流し、一息つこうとロビーで寛いでいたら、隣接しているスタジオから小気味いいビート音が流れ始めた。おそらくBTSだと思う(最近音楽に疎い)。その音楽に合わせて女性インストラクターの快活な声が響く。

「はい、◯◯のポーズ!」「腕を斜め上にー!」という声から察するにおそらくダンスレッスンだ。「なかなか合わないですねー」というインストラクターの言葉から、集団レッスンであることもわかる。「合わない」という割にその声から焦燥感のようなものは感じない。どことなく楽しそうですらある。きっと和気藹々とした初心者向けのレッスンなのだろう。

どんな人たちが受けているのだろうと少し興味が出て、帰り際チラッと覗いてみたら、少し禿げかかった白髪の初老のおじさんと目が合った。いや、正しくはレッスンスタジオに設置された鏡越しのおじさんと目が合った、ような気がしただけだった。彼はただ、鏡に映る自身の身体の動きを確認しながら一心不乱に手足を動かしていた。

まさか初老のおじさんがいると思わず、驚きとともにスタジオ全体に目を移せば、10名近い「おじさん」達が一所懸命に踊っていた。数秒程度の観察だが、彼らの表情はインスタラクターの醸す雰囲気とは裏腹に真剣そのものだった。

鬼気迫るようなおじさんの表情と、思うように動いていない(であろう)チグハグなダンスを見ていたら、なんとなく居心地が悪くなってしまって、足早にそこを後にした。

ジムを出て少し歩いていたらしてふいに込み上げるものがあった。急なことで一瞬たじろいだ。鼻の奥がツンとして少し目が潤みさえした。

なんだこれは?突発的な感情の波に溺れながらその出所を頭の中に求めた。でも探らずともほんとはわかっていた。

僕は感動したのだ。真剣な表情でチグハグなダンスしていたおじさん達に感動してしまったのだ。

その足で行きつけの洋食屋さんに入り、カウンターに座って、今しがた起きた感情について思いを巡らせてみた。

なぜ僕はあのおじさん達に感動したのか、いくら考えても理由がわからなかった。同情ではない、憐憫でもない、そういう類の感情ではないことはわかった。でもそれ以上いくら考えても理由が出てこなかった。

考えることを諦めて、ぼんやりとシェフの動きを目で追うことにした。この洋食屋のシェフの一片の無駄を許さない所作がとても好きなのだ。

このお店の名物はハンバーグ。半数以上の人がお昼時に注文をする。シェフは注文を受けると静かにフライパンに火を点し、バットから「タネ」を取り出すと、2度3度自身の両手でキャッチボールをしてそっとフライパンに載せる。載せたらその間にキッチンまわりやまな板を専用のふきんで拭く。一定の時間が立ったらフライパンに水を差し蓋をする。焼き上がる間にまたシンク周りをふきんで拭く。

そのひとつひとつの動作を見ていると、きっと数千回、ひょっと数万回と繰り返されてきた所作なんだろうということはわかる。それだけ一切無駄のない動きだ。一連の所作には厳格な雰囲気さえ漂う。なるほどシェフの持ち場は「聖域」と呼ばれる理由がわかる。シェフの面立ちにもそれは表れている。きれいな坊主頭に一筋の険しさが宿る表情はまるで修行僧だ。それでも料理ができあがればいつも慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、太く穏やかな声で「お待たせしました」とカウンター越しに差し出してくれる。

言うまでもないが、ここで出されるハンバーグはとても美味い(前にも書いた気がする)。この日も夢中になって皿と向き合い、ものの数分で完食した。

水を一口飲み、ホッと一息入れてキッチンに目をやれば、数分前と寸分変わらない厳格な背中がフライパンと向き合っている。シンクやステンレスの壁は汚れひとつなく、それでいて新品とは違う使い古された親密な光を放っている。

「ごちそうさまです」大きな背中に頭を下げて席を立つ。勘定を済ませ店を出る時には「ありがとうございます」とシェフが背中に声をかけてくれる。

その声を背負ったまま店を後にした。みぞおちあたりが温かい。その温もりはきっと料理だけではないはずだ。

ここにもひとつの感動があった。

今年はこれまでになく感動を強要された夏だった。そして感動を疑った夏でもあった。

1年順延された祭典には、遅々として進まない感染症対策に対する市井の苛立ちを、「スポーツの感動」で覆い隠さんとするような狙いが見えてしまって、いざ祭典が始まっても、自身の感情に蓋をするように、画面越しのアスリートから目を逸らす日々が続いた。

そんなことだから、メダルをとった歓喜の声がテレビ越しやSNSのタイムラインに上がる度に、なんとも行き場のない感情とやり合う羽目にもなった。感動に尻込みする数週間だった。

本当ならもっと気安く感動したい。けれど「道具」にされた感動からは距離を置きたい。まわりの空気にも流されたくもない。なかなか難しい。考えすぎなのかもしれない。

翻って、先日のジムと洋食屋で感じた小さな感動は、湯船に浸かるような気分の良さがある。鼓舞するような強さはないけれど、ゆっくりと染み渡る滋養のような温かさがある。

感動なんて小さくたっていいし、誰に理解されなくてもいい。

身体の器官なのか、頼りない心なのかはわからないけれど、「自分自身の中を通った感動」だけは僕自身がしっかりと把握してあげたいし、できるだけ手放さずにいたい。

文・写真:Takapi