タクシーの窓越しで

DCEA1893-D9E4-4243-BD75-12B953545D0A仕事で関わった方から声をかけられ、ほとんど初対面の方たち数名と代官山のクラフトビール屋さんでお酒を飲み交わした。

宴は盛り上がりそのまま二次会に行くことに。少し離れたバーに行こうとタクシーをつかまえ4人で乗り込む。5人乗りのセダンに初対面の僕らは身を寄せるような形で座ることになった。

ほろ酔いの中の「密室」は不思議と気持ちを落ち着かせる。微睡んだような会話を楽しみながら窓の外を通り過ぎていくイルミネーションをぼんやりとした目で追いかけていた。

夜に乗るタクシーが好きだ。なんで好きなんだろうなぁと考えていたら、渋谷のスクランブル交差点で信号につかまりタクシーが停車した。

思い起こせば渋谷のスクランブル交差点を車の中から眺めるのは初めてだ。手の届く場所に大勢の人が行き交っていて、同じようにほろ酔いで談笑する人もいれば、黙々と目的地を目指しひた歩いている様子の人もいる。

近いのに遠い。とても遠い。その場に流れている音も熱もウインドウで遮断されて僕には届かない。ただそれだけで「距離」は作ることができてしまう。でも不思議とその距離が僕に高揚感を抱かせた。

ふだんの自分を覗いているような感覚とでも言えばいいのだろうか。あの交差点を横切っている人の中に「自分」を探すような、そんな感覚なのかもしれない。

「交差点の僕」はどんな顔をして歩いているのだろう。これからデートなのだろうか。気の乗らない接待なのだろうか。近くて遠い人になった途端に軽々しく想像してしまっている自分の凶暴さに気づく。さっき感じた「高揚感」は、自分の中の凶暴さが顔を出したからだった。

数秒後、タクシーは動き出しその景色は後ろに通り過ぎていった。「密室」の会話に戻っていった時には、近くて遠い距離にいた人たちは跡形もなく頭から消え去っていた。 FDBF7963-D968-4215-985B-4F341F140C7E 12月。鍋が美味しくなる季節だ。1年間続けてきた料理家さんとの仕事も今月は「鍋」にすることにした。仕事場(つまり先生のお家)で鍋を作り、撮影や取材が終わったあとメンバー全員で囲むことになった。

「少し早い忘年会ですね」と言いながらこの日ばかりは少しお酒を入れて談笑モードに。ひとつの鍋をみんなが箸でつつく行為がそうさせるのか、普段よりも距離が近づいたように感じた。メンバーも同じ心持ちだったのか、仕事以外の話なんかも出て終始和やかな会になった。

僕はガスバーナーの火を眺めながら、なんだか「焚き火」みたいだなぁと、仕事を放り投げた頭で思っていた。 「焚き火」なんて言葉が浮かんでしまったものだから、小学生の時に行った林間学校のキャンプファイヤーの光景が目の前を過ぎることになる。そしてその数秒後には漫画でしか見たことのないような、原始時代の洞窟の中の家族の風景が浮かんだ。

数万年も前から、人類はこうして火を囲むことで「仲間意識」を養っては生き延びてきたのかもしれない。そんな生き延びるための知見がDNAに書き込まれ、焚き火は今こうして僕らの目の前の鍋に姿を変え、仲間意識を「団欒」にやさしく置き換えて生き延びようとしているのかもしれない。

お酒の入った頭は飛躍に飛躍を重ね、1000年後にはどうなっているのだろう…と思ったところで「もう1杯飲みますか?」と仕事仲間から声をかけられ、意識は握っていたコップに着地した。 OLYMPUS DIGITAL CAMERA          Processed with VSCO with u3 preset 社会人経験が数年の若手の方や大学生がいる飲み会に参加した(飲んでばっかりだな)。その中で社会人2年目くらいの方から転職するという報告があった。聞けば、今いる会社のビジョンに共感できない、やっていることの意味が見い出せない、といったような理由だった。まわりからは「うんうん、そうだね」「決意できてよかったね」というポジティブな声が行き交っていた。

そのやりとりを眺めていて突然何かが僕を内側から小突いた、と思ったときにはもう口から言葉が出ていた。「どんな決断も否定はしないけど、今の君の決断が『逃げた』という自覚だけはしておいた方が良いよ」と僕は言っていた。

一瞬で場が引いていくのが分かった。ただでさえ、だいぶ年上の自分が参加していることで気を遣わせている上に、説教まがいのこの発言だ。何より僕自身が引いていた。たとえ思ったとしても口にすべき言葉ではない。そんなことくらいわかっているつもりだったのに。

「まずいな」と思い場を繕おうとして言葉を探す。しかしながら出てきた言葉は余計に説教くさく、さらに場を凍らせることになった。 ひと通り話し終えると、今度は言葉がまったく出なくなってしまった。見かねた友人が投げ縄のように別の話題を放り込んでくれたおかげで、その場は和やかさを取り戻すことができた。

その後は楽しい会にはなったものの、僕はお腹のあたりに鈍い痛みのような、重石のようなものが乗っているような違和感を残したまま参加することになった。 飲み会の後半、談笑する頭の傍らでふと、新卒で入社した広告代理店の営業時代の、一番忙しい年末の「挨拶まわり」の映像が浮かんだ。こんな「カレンダー」を渡した程度で来年も仕事がもらえるようなら僕の仕事もなめられたもんだな、と当時のへそ曲がりな頭の中が蘇ってきた。

同時に思い出していた。「来年こそはナンバーワン営業マンになってやる」と、来年の自分に想いを託すようにカレンダーを渡しまわっていた健気で強気で弱い自分を。

そこでようやくわかった。さっきの言葉は「いつかの自分」にかけたものだったのだと。そして本当は続けてこう言いたかったのだと。 「いろんなことがあってアタフタし続けているけれど、それでもなんとか楽しくやってるよ」 DD3CEF9C-1424-4E09-81CA-2A99B86CC803 好むと好まらざるに関わらず僕たちは、ちょっとした目の前の出来事をきっかけにして、自身の過去に立ち戻ったり、知らない誰かに自分を重ねるようなことをしてしまう。そしてつい要らない言葉を口にしてしまったり、凶暴な想像力を働かせてしまったりする。

どんなに会話を重ね信頼を培っても、自身が積み上げてきた経験や今置かれている境遇が、あっという間に相手と距離をつくってしまうことがある。そう、それはタクシーのウインドウのように。

人と人が分かり合うって難しい。

それでも年末になると思うのだ。気の合う仲間と鍋を囲み馬鹿笑いして過ごした忘年会の帰り道に、酔った頭で振り返りながら思うのだ。

僕たちは、分かり合うことはできなくても「分かち合う」ことで乗り越えられるものがあるということを。そしてそんな積み重ねが「いつか」の自分を温め、「これから」の自分を肯定しうるということも。

年末は目の前の時間を分かち合うことができる季節だ。なるべくなら温かい気持ちで触れ合い、別れ際はこんな言葉で締めくくりたい。

今年もありがとう。よいお年を。

文・写真/Takapi

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