「振り返れば、あれがターニングポイントだったのかもしれない」
今やっている仕事の多くは、何かしらの事業や商品に中心的に関わった人の話を聞き、記事にして世の中に配信することだ。
話を聞く時は大抵その人の半生を遡ることになる。長大なドキュメンタリーを目の当たりにして興奮で身体が粟立つようなその感覚は、僕が仕事をしている中でも最も楽しい瞬間のひとつだ。
話の中で必ずと言っていいほど出てくるのが冒頭の言葉。
ターニングポイント。
言葉だけ聞けば、まるで大きな転換点のようにドラマチックに映る。実際にはほとんどの人は振り返ってはじめて「気づく」ことが多い。そう考えると「布石」や「種まき」という言葉の方がしっくりくる。
近い将来や、それこそ明日のために、少しでも良い方に向かうように置いてきた大小様々の石たちが、立ち戻ってみた時に輝いて見えるようなことはあるようだ。
これまで多くの人から心を打つ話を聞いてきたけれど、彼ら(彼女ら)に共通点があるとすれば、それは何度も何度も飽きることなく繰り返し「石を置き続けてきた」という一点に尽きる。
置いた石によってはあらぬ方向に行くこともある。その度に右往左往しながらも石を置き続けていく。そうした先に、その人にしか作り得ない「道筋」ができる。唯一無二のその道筋は美しく、だから多くの人の胸を打つわけだ。
もちろん石を置き続けられる人とそうでない人はいる。では性懲りもなく石を置き続けられる人の源泉となるエネルギーはなんなのだろう?いつも気になっているのに聞きそびれてしまう。
先日オンライン会議でとあるプレゼンを行った。大枠の話を終えて出席者の反応を待っていると、それまでずっと黙って聞いていた目上の方が「よくわかりました。君の提案通りいきましょう。ありがとうございます」と労いの言葉をかけてくれた。
続けて「でもこれから大変そうね」と心配を口にした後「あ。でも君は大丈夫か。楽しそうだから」と笑った。聞こえ方によっては嫌味に取れる言葉だ。けれどその人から発せられた「楽しそう」の響きからは素直に嬉しさがこみ上げてきた。
パソコン上で会議から「退室」した後しばらく経っても「楽しそう」という言葉が頭の中にぼんやりと残っていた。
と同時に、ふたつの過去の出来事が頭に浮かんでいた。
小学生高学年の頃、僕は空き缶を拾いながら登校をしていた。
校舎の脇に突如として設置された空き缶のリサイクルボックスに気付くやいなや、誰から言われるわけでもなく(もしかしたら親からそそのかされたかもしれない)その翌日からゴミ袋を持って家を出ては、通学路に落ちている空き缶を拾いながら登校することにしたのだ。
いかにも優等生がやるようなことだ。僕自身そういった目を意識していなかったといえば嘘になると思う。それでも一定期間継続できたのは、それ自体が苦でなかったからだ。
空き缶を探すため道路脇に目を凝らせば、想像以上にゴミが多いことや、道端の雑草の花の数の多さに気付くことができた。これまで出会うことのなかった情報はただただ新鮮で、僕はそのひとつひとつの新しい情報に夢中になった。
その行動が周囲からは「楽しそう」に見られていたのだろうか。当初眺めるだけだった同級生たちの中から、ポツポツと空き缶を拾いながら登校する人が出てきた。
「楽しそう」に振る舞うことで周りの人を巻き込むことができると知ったはじめての体験だった。
広告代理店の営業時代、僕らに足りないのは知名度と実績だった。そもそも会社名すら知られていない代理店だったから会ってもらうことすら難しかった。
あれこれと打ち手を繰り出すものの、なかなかこれといった必勝法は見つからなかった。僕にできることはクライアントの話をしつこいくらいに聞くことと、当初新しい手法がどんどん出てきた「インターネット広告」について、どんな小さいネタでも欠かさず情報提供に伺ったことくらい。
それでも数年も同じようなことをしていると、不思議とコンペで勝てるようになってきた。あるコンペで大手広告代理店からの切り替えに成功した際、担当者に勝因を聞いてみたら、そこで返ってきた答えが「いや、なんか○○さん(僕の名前だ)、仕事楽しそうだから」だった。
会社に戻り上長にその旨を伝えるとなんともいえない表情をしていた。苦虫を噛むような、拍子抜けするような表情をしていたのを憶えている。
楽しそうに見えることは、時に人を安心させ、信頼に繋がることさえある。この体験は今でも、うまくいかなくなった時にそっと顔を出しては僕を勇気づけてくれる。
こうして振り返ってみると、僕は「楽しそう」と言われる度に少しずつ見える景色が変わっていったように思う。自分の立っていた場所に薄い石が1枚分敷かれ、ほんの少しだけ高い場所から世界を見ることができたようなアップデート感がある。
「楽しそう」な人に人は集まり、次の楽しいことを持ち込んでくれる。僕について言えば、それはほとんど100%確信に近い経験則だ。
時に人はいろんな「モノサシ」を引っ張り出しては、自身の身の丈を測り、勝手に焦ったり傷付いたりする。そんなことやめればいいのに、ついついやってしまう。
僕自身も時折そのモノサシを持ち出してしまう。自信を失くした時、何か満たされない時、そのモノサシは顔を出して僕を誘惑する。モノサシを使って誰かよりも優位にいることをたしかめたいのだ。
でも、いろんな人の話を聞いてきてわかっているのは、置いた石の数が多ければ多いほど「道筋」はユニークになっていくということであり、そのユニークさはモノサシを遠ざけるということだ。
道筋が複雑になればなるほど自身を測ること自体難しくなる。自身を測れずしてどうやって他人と比べられるのだろう。現に話を聞いた人の中でモノサシを持ち出しては立ち止まっているような人に会うことはなかった。
僕でいえば、置き続けてきた「輝く石」は「楽しそう」ということになるのかもしれない。もちろん人によって違うのだろう。そもそもそれはひとつではないはずだ。
僕は僕で、今日も明日も性懲りもなく「楽しそう」を見つけていくことにする。
それが現時点における未来への布石になりそうだから。
文・写真:Takapi